マザー・テレサがしたことは、時に称賛され、時に批判も受けるなど、単純に語れるものではありません。世界中から尊敬を集めた彼女は、果たしてどんな人だったのでしょうか。そして実際にどのような活動を行い、なぜこれほど深い影響を与えたのでしょうか。
本記事では、マザー・テレサの生涯をたどりながら、彼女の職業や支援活動のすごいところを簡単に整理しています。また、心に残る名言や感動的なエピソード、晩年の様子や死因についてもわかりやすくご紹介します。初めて知る方でも無理なく理解できるように、信仰や社会的評価、そして活動への批判まで幅広く触れています。
この記事を読むとわかること
- マザー・テレサが実際に行ったことや職業
- 活動の背景にある名言や感動エピソード
- 死因や晩年の過ごし方、生涯の流れ
- 批判の内容とそれに対する考え方
マザー・テレサがしたことを簡単に紹介

- マザー・テレサはどんな人かを簡単に解説
- マザー・テレサの職業とカトリックとの関係
- マザー・テレサの生涯を時系列で振り返る
- 世界各地で支援した活動の広がり
- マザー・テレサの死因と晩年の様子
マザー・テレサはどんな人かを簡単に解説
マザー・テレサは、20世紀を代表する慈善活動家として世界的に知られる存在です。彼女は、インドのコルカタ(旧カルカッタ)を拠点に、貧しい人々、病人、孤児、見捨てられた人々の支援に生涯を捧げた修道女でした。その活動の規模と影響力は極めて大きく、彼女の名はキリスト教信仰の枠を超えて、多くの人々に敬意を持って語られています。
マザー・テレサは1910年、現在の北マケドニア・スコピエに生まれ、本名をアグネス・ゴンジャ・ボヤジュといいます。彼女の幼少期は信仰心の深い家庭環境で育まれました。若くして宣教師に憧れを抱き、18歳のときにアイルランドのロレット修道会に入会。その後、インドへ派遣され、教育に従事します。
ただし、彼女が本格的に社会奉仕活動を始めるのは、それからさらに20年近く後のことです。1946年、汽車での旅の途中に「もっとも貧しい人の間で働きなさい」という神の声を感じた彼女は、教会から特別な許可を得て修道院を出て、インドのスラム街での活動を開始しました。
このように、マザー・テレサとは、キリスト教の信仰に基づき、困窮した人々に寄り添うことで神の愛を実践した人物です。ノーベル平和賞をはじめとする多くの賞を受けながらも、常に謙虚に、自らを「貧しい人々のための道具」に過ぎないと語っていました。その献身的な姿勢と実績から、カトリック教会では2016年に正式に聖人とされました。
マザー・テレサの職業とカトリックとの関係
マザー・テレサの職業は「修道女」であり、その中でも「神の愛の宣教者会」というカトリック系修道会の創設者かつリーダーでした。修道女とは、カトリック教会の中で宗教的誓願を立て、特定の修道会に所属しながら、祈りと奉仕を中心とした生活を送る女性のことを指します。
マザー・テレサの修道生活は、アイルランドのロレット修道会に入会したことに始まります。この修道会は主に教育活動を行う団体であり、彼女も最初はインドの聖マリア学院で教員として働いていました。しかし、その後は教えること以上に「仕えること」への関心が高まりました。
カトリック教会における奉仕とは、単なる善意の行動ではなく、神への献身として理解されています。マザー・テレサにとって、貧しい人々のケアや孤独な人への寄り添いは、キリストの愛を直接伝える行為でした。これにより、宗教的信念と日常の実践が強く結びついていたのです。
また、「神の愛の宣教者会」は1950年にバチカンから認可を受けて設立され、その理念は「見捨てられた人に仕えること」でした。テレサは、所属する修道女たちにも同じ精神を求め、どんな人でも宗教や身分に関係なくケアするよう指導しました。
つまり、彼女の職業は単なる宗教的役職にとどまらず、信仰と社会的奉仕を融合させる活動そのものでした。カトリックの教えに根差しつつも、現実社会における問題への対応力と実践力が彼女の評価を高めたと言えるでしょう。
マザー・テレサの生涯を時系列で振り返る
マザー・テレサの87年間の人生は、数多くの転機と行動に満ちていました。ここでは、その主な出来事を時系列で簡潔に整理してみましょう。
年 | 出来事 |
---|---|
1910年 | 北マケドニアのスコピエに生まれる(本名アグネス・ゴンジャ・ボヤジュ) |
1928年 | アイルランドのロレット修道会に入会、インド派遣を決意 |
1929年 | インドのダージリンに到着、修練開始 |
1931年 | 初誓願を立て「テレサ」の名を名乗る |
1937年 | 終生誓願を立て、正式な修道女となる |
1946年 | 神の啓示を受け、貧者の中で生きる決意を固める |
1948年 | 修道院を出て、スラムでの活動を開始 |
1950年 | 「神の愛の宣教者会」を創設、正式認可を受ける |
1979年 | ノーベル平和賞を受賞 |
1997年 | コルカタにて死去、インド政府による国葬 |
このように、彼女の人生は「教える人」から「仕える人」へと役割が変化していきました。その背景には、深い信仰と使命感が常にありました。特に1946年の啓示以降の人生は、自らの快適さを手放し、世界の最も貧しい人々に身を捧げる選択をしています。
彼女の人生の道のりは、単なる経歴としてではなく、「なぜ人は他人のために尽くすのか」という問いへの一つの答えとも言えるでしょう。
世界各地で支援した活動の広がり
マザー・テレサの活動は、当初のインド・カルカッタから始まりましたが、次第に世界中に広がっていきました。特に「神の愛の宣教者会」のネットワークを通じて、修道院や施設がさまざまな国や地域に設立され、支援の輪が拡大していったのです。
活動の最初の海外展開は、1965年のベネズエラでした。ここでは地元の貧困層への支援を皮切りに、教育・医療・福祉の分野で活動が始まりました。その後、アフリカ、南アメリカ、ヨーロッパ、アジアの国々でも同様の施設が設立され、1990年代には123か国以上で活動が確認されています。
特に注目すべきは、宗教や文化の違いに関係なく、その土地のニーズに合わせた支援が行われていた点です。例えば、ネパールのヒンドゥー教寺院では高齢者を介護する活動が行われ、エイズやハンセン病患者のケアも各国で進められました。
日本でも、1981年に東京都江東区に未婚の母とその子供たちのための施設が設立され、マザー・テレサ自らが訪問しています。現在では、東京・愛知・大分などで活動が続いています。
このように、マザー・テレサの活動は単なる慈善事業ではなく、信仰と行動を融合させた国際的な奉仕のネットワークだったのです。
マザー・テレサの死因と晩年の様子
マザー・テレサは晩年、度重なる病との闘いに苦しんでいました。特に1980年代以降、心臓疾患や肺炎、マラリアなどの健康問題が頻発し、医師による集中治療が必要な時期も多くありました。彼女の死因は心臓疾患とされていますが、それまでの長年にわたる過労が体に大きな影響を与えていたと考えられています。
1983年には、ローマ教皇との会見の際に心臓発作を起こし、以降はペースメーカーの装着や複数回の入院を経験します。それでも彼女は活動をやめることなく、1991年には念願であったアルバニア支部を設立し、病身を押して現地を訪れました。
1997年3月、体力の限界を感じた彼女は「神の愛の宣教者会」の総長を辞任。同年9月5日、インド・コルカタのマザーハウスにて息を引き取りました。享年87歳でした。
彼女の死は、インド政府によって国葬として扱われ、宗教・国籍を超えた多くの人々がその死を悼みました。特に印象的だったのは、ヒンドゥー教やイスラム教、シク教の指導者たちが一堂に会し、彼女の人生を讃えた葬儀の光景です。マザー・テレサがいかに広範な影響力を持っていたかを象徴するものでした。
彼女の遺体は、マザーハウス内にある静かな石棺に安置され、今でも世界中から訪れる人々の祈りの場となっています。彼女の最期まで変わらぬ姿勢は、多くの人に生き方の指針を与え続けています。
マザー・テレサがしたことのすごいところとは

- 「死を待つ人の家」に込められた思い
- 貧困層や孤児への献身的な支援活動
- ノーベル平和賞を受賞した理由とは
- ハンセン病患者に寄り添った感動のエピソード
- 有名な名言とその背景にある信念
- 活動に対する批判とその内容
- 現在も続く「神の愛の宣教者会」の取り組み
「死を待つ人の家」に込められた思い
「死を待つ人の家」とは、マザー・テレサがインド・カルカッタで設立した最初のホスピス施設であり、正式には「ニルマル・ヒルダイ(清い心の家)」と呼ばれます。ここでは、路上で死にかけている人々や病院にも受け入れてもらえない末期の患者たちを引き取り、その最期を人間らしく迎えさせるというケアが行われていました。
この施設が設立された背景には、マザー・テレサ自身が路上で蛆虫に顔を食い荒らされていた女性と出会った体験があります。その女性は誰からも看取られず、助けもされず、ただ孤独に死を待つばかりでした。マザーはその女性を自分の手で抱き上げ、体を清め、最後の瞬間を穏やかに迎えられるよう尽くしたといいます。
このような体験を通じて、マザー・テレサが何よりも重視していたのは「人間の尊厳」でした。死に瀕する人であっても、最後まで“愛される価値のある存在”として扱われるべきだと信じていたのです。彼女は、「たとえ一人の命であっても、それが救われたなら、それは大きな意味がある」と語っています。
一方で、この施設に対する外部からの評価には賛否があります。医療体制の不備や設備の簡素さを問題視する声もありました。特に西洋の基準から見れば、清潔さや処置のレベルに疑問が投げかけられることもありました。
しかし、マザーの意図は「延命」ではなく、「最期を人間として迎えること」を手助けする点にありました。医学的な処置よりも、手を握ること、声をかけること、祈ること。それらの行為が彼女にとっての“治療”でした。
このように、「死を待つ人の家」は、単なるホスピスではなく、人間の最期に対する尊厳の回復を象徴する場所として今も世界中の人々の心に残り続けています。
貧困層や孤児への献身的な支援活動
マザー・テレサの活動の中心には、常に「もっとも貧しい人々のために生きる」という理念がありました。彼女が初めて取り組んだ支援活動の一つが、路上にいる子どもたちに対して行った青空教室です。これは学校に通えない貧しい子どもたちに、読み書きや道徳、衛生の知識を無料で教えるというもので、文字通り地べたに字を書きながら行われました。
その後、「神の愛の宣教者会」の支援を受けて、孤児院やスラム内の学校が次々と開設されていきます。教育に加えて、栄養のある食事や衣服の提供、簡易医療など、子どもたちの命と未来を守るための包括的な支援が行われました。
マザーは、貧困層への支援を単に「施し」としてではなく、「愛の行い」として実践していました。多くの人が忘れがちなことですが、貧困とは単に物がないという状態だけではありません。社会からの孤立や自己否定感、愛されていないという思いが、貧困の本質的な苦しみなのです。
このため、マザーは食料を与えるだけでなく、目を見て話す、名前を呼ぶ、微笑みかけるといった“人としての関わり”を何よりも重視しました。
ただ、活動の広がりとともに運営には多くの困難も伴いました。資金不足、物資の不安定供給、ボランティアの教育など、課題は山積みでしたが、それでも彼女は決して支援を止めることはありませんでした。
現在も彼女の理念は、神の愛の宣教者会の支部を通じて受け継がれ、貧困層や孤児のための活動が続けられています。彼女の行動は、物質的な貧しさ以上に、心の飢えに向き合う姿勢が求められていることを私たちに教えてくれます。
ノーベル平和賞を受賞した理由とは
マザー・テレサがノーベル平和賞を受賞したのは1979年のことです。この受賞は、戦争の調停や政治的解決ではなく、日々の小さな行いが世界平和に貢献することを証明する出来事として、当時大きな話題となりました。
彼女が受賞に至った理由の一つは、宗教や国籍、身分に関係なく、苦しむすべての人々に対して無条件の愛を注いだ姿勢にあります。特にインドのカルカッタでの活動は、国際社会から大きな注目を集めており、死を待つ人、孤児、ハンセン病患者など、誰もが避けたがる相手に手を差し伸べたことが高く評価されました。
また、受賞スピーチにおける彼女の言葉も、多くの人々の心に残っています。マザーは「私のための晩餐会は不要です。その費用を貧しい人々のために使ってください」と語り、賞金の全額を貧困支援に使うと発表しました。この行動が、単なる名誉ではなく、実践と行動で平和を体現する人物であることを強く印象づけました。
ノーベル平和賞に見るマザーの姿勢
項目 | 内容 |
---|---|
受賞年 | 1979年 |
主な理由 | 貧困者・病人・見捨てられた人々への奉仕活動 |
スピーチ内容 | 愛の重要性、家庭から始まる平和の実践 |
賞金の使途 | インド・カルカッタの支援活動に全額寄付 |
このように、マザー・テレサのノーベル平和賞受賞は、世界における「平和の意味」を再定義したとも言える出来事でした。政治的成果だけではなく、人と人との関係性における“愛”と“奉仕”が、いかにして平和につながるかを、彼女の人生は静かに語っていたのです。
ハンセン病患者に寄り添った感動のエピソード
マザー・テレサが特に力を入れていた活動の一つが、ハンセン病患者への支援です。かつて多くの国で差別の対象となっていたこの病気に対し、彼女は決して恐れや偏見を持ちませんでした。むしろ、社会から見捨てられたその存在こそ、最も愛を必要としていると考えていたのです。
インドでは、ハンセン病に対する誤解が根強く残っていました。患者たちは隔離され、家族からも地域社会からも離されて生きるしかない状況でした。こうした現実を前に、マザー・テレサは「平和の村」と呼ばれる施設を設け、患者たちとともに生活し、医療・食事・精神的な支援を行っていました。
この施設では、単に看護をするだけでなく、患者が作業できるような仕事の場を用意し、自立への手助けも行っていました。マザーは自らの手で患者の身体を洗い、薬を塗り、同じ目線で語りかけていたといわれています。
ある時、ハンセン病の患者がマザーに「なぜあなたは私たちのような人間に触れるのですか?」と尋ねたことがありました。マザーは微笑んで「あなたの中に、キリストを見ているからです」と答えたと言われています。
このような言葉には、宗教的な思想だけでなく、人間としての尊厳を見つめる深いまなざしが込められています。彼女の行いは、「誰もが等しく神に愛される存在である」という信念に基づいていたのです。
有名な名言とその背景にある信念
マザー・テレサの活動は、数多くの名言によっても知られています。それらの言葉には、彼女が実際に見て、感じ、信じてきた人生の核心が込められています。代表的な名言の一つに、「愛の反対は憎しみではなく、無関心です」というものがあります。この言葉には、ただ貧しさや病気だけが人を傷つけるのではなく、誰にも必要とされていないと感じる孤独や無視こそが、最も人の心を深く傷つけるという思いが反映されています。
また、彼女は「成功ではなく、誠実さが求められている」という趣旨の言葉も多く残しています。これは、どれだけ大きな成果をあげたかよりも、どれだけ純粋な心で他人のために尽くしたかが大切だという価値観を示しています。活動が困難な状況でも決してあきらめず、少しでも目の前の人のためにできることをやる。そんな姿勢が彼女の名言には一貫して表れているのです。
さらに、「もし100人の人を救えないなら、1人を救いなさい」という言葉も有名です。これは、私たち一人ひとりに向けたメッセージでもあります。大きなことができなくても、小さなことを誠実に行うことに意味があると、彼女は教えてくれています。
これらの名言が広く共感を呼ぶのは、宗教的な教義に閉じたものではなく、人間としての根源的な思いやりや、日々の生活の中で誰にでもできる行動を呼びかける内容だからです。そしてその言葉の一つひとつは、マザー・テレサ自身が実際に行動し続けてきたことに裏付けられたものです。
つまり、マザー・テレサの名言は、美しい言葉としてではなく、「実践をともなった信念」の証として、今も多くの人々の心に生き続けているのです。
活動に対する批判とその内容
世界的に高く評価されてきたマザー・テレサの活動ですが、一方で批判の声が存在することも事実です。特に1990年代以降、その活動の在り方や資金の使途、医療水準に関してさまざまな論争が巻き起こりました。
批判の一つは、「死を待つ人の家」に代表されるホスピス施設の医療体制についてです。一部のジャーナリストや医療専門家からは、「設備があまりにも簡素すぎる」「痛み止めなどの基本的な薬が提供されていない」といった意見が出されました。たしかに、先進国の基準からすれば、施設は決して衛生的でも近代的でもありませんでした。
また、マザー・テレサが受け取った莫大な寄付金の行き先についても、一部の報道では「透明性が不十分」と指摘されました。寄付金が活動資金として本当に活用されているのかという疑念や、資金管理に関する情報の開示が乏しいという声が一部で上がっています。
さらに、マザーが関係を持っていた人物や団体についても批判の対象となりました。たとえば、彼女が支援を受けた人物の中には、独裁者や腐敗した政治家も含まれていたとされ、「そのような人物と距離を置かなかったのは問題ではないか」との指摘があります。
宗教的観点からも異論がありました。一部では、施設に入った患者がキリスト教に改宗させられていたのではないかという批判も見られました。しかし、実際には、マザー・テレサの活動は基本的に他宗教を尊重するものであり、ヒンズー教徒やイスラム教徒には、それぞれの信仰に基づいたケアが施されていたことも記録されています。
これらの批判が意味することは、彼女の活動が完璧だったというより、「極めて人間的な限界の中で行われた献身」だったということかもしれません。聖人であっても全ての人の期待に応えることはできない。そうした現実を理解したうえで、彼女の功績と課題の両方を正しく評価することが求められています。
現在も続く「神の愛の宣教者会」の取り組み
マザー・テレサが1950年に創設した「神の愛の宣教者会」は、彼女の死後も活動を継続し、現在では世界中で支部を展開しています。2024年現在、約4500名の修道女が所属し、130カ国以上で活動を行っています。主な取り組みは、貧困層やホームレス、孤児、病人、高齢者への支援であり、これまでと変わらず「もっとも小さき人のために仕える」という理念を掲げています。
活動内容は国や地域によって異なりますが、いずれもその土地の実情に応じた支援が行われています。たとえば、日本国内では、東京都内を中心に未婚の母やその子どもたち、生活困窮者に対する居住支援や生活相談を続けています。こうした活動は、表に出ることは少ないものの、多くの人々にとって欠かせない命綱となっています。
「神の愛の宣教者会」の特徴は、活動資金を基本的に寄付に頼っている点にあります。会は営利を目的としておらず、政府からの大規模な補助金なども受け取っていません。そのため、世界中からのボランティアや支援者の協力が、会の存続にとって非常に重要です。
修道女たちは、簡素なサリーに身を包み、極めて質素な生活を送りながら、日々現場で働いています。マザー・テレサの教えを体現するように、自らも貧しさを選び取ることで、助ける人々と同じ目線に立とうとする姿勢が貫かれています。
もちろん、現代の社会課題は多様化しています。移民問題、医療の格差、精神疾患、社会的孤立など、単純な“貧困”という言葉では括れない困難が増えています。その中でも、「神の愛の宣教者会」は、制度の隙間に落ちた人々に対して、柔軟に寄り添いながら活動を続けているのです。
マザー・テレサが残した理念は、今も世界中の多くの人々によって受け継がれ、静かに、しかし確実に社会を変え続けています。
マザー・テレサがしたことをまとめてご紹介します
マザー・テレサが生涯をかけて行ってきたことは、単なる慈善活動という枠を超えて、世界中に深い感動と影響を与えました。ここでは、彼女が実際に行ってきた活動や功績を、わかりやすく箇条書きでご紹介します。どれも信仰と行動が結びついた、心のこもった実践ばかりです。
- インド・コルカタのスラム街で、路上生活者や病人の世話を自ら始めた
- 「死を待つ人の家」を設立し、最期を迎える人たちに人間としての尊厳を取り戻させた
- 「神の愛の宣教者会」を創設し、世界各国に慈善施設や支部を展開した
- ハンセン病患者やエイズ患者など、差別を受けた人々に寄り添い続けた
- 路上の子どもたちのために、青空教室を開き無償で教育を行った
- 未婚の母や孤児、高齢者など、立場の弱い人々を包括的に支援した
- ノーベル平和賞をはじめ、数々の国際的な賞を受賞しながらも、全てを奉仕活動に使った
- 他宗教の人々にも配慮し、それぞれの信仰を尊重した支援を行った
- 「愛の反対は無関心」といった心に響く名言を数多く残した
- 言葉だけでなく、実際の行動で信念を示し、多くの人に生き方の指針を与えた
- 病気や老いに苦しみながらも、最期まで現場での支援活動をやめなかった
- 晩年は健康を害しつつも、アルバニアや日本など世界各地を訪れて励ましの言葉を届けた
- 活動に対する一部の批判にも、誠実な態度で応じ続けた
- 死後も理念は受け継がれ、今も世界130か国以上で支援活動が続いている
- カトリック教会によって2016年に正式な聖人として列聖された
マザー・テレサのしてきたことは、決して派手ではありませんが、一つひとつが人間の心に静かに届く行動でした。私たちの日常の中でも、小さな「愛の行い」から始めることができるのだと、彼女は教えてくれています。
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参考サイト
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