島津斉彬は何をした人?功績・篤姫・西郷隆盛との関係まで解説

島津斉彬

幕末の歴史を語るうえで、島津斉彬は欠かせない存在です。
では、その島津斉彬は何をした人だったのでしょうか。
薩摩藩を近代化へ導き、西郷隆盛との深い関係や篤姫の将軍家への輿入れにも関わった斉彬。
その一方で、短い生涯の中で彼がどんな功績を残し、どのような最期を迎えたのかは、意外と知られていないかもしれません。

この記事では、島津斉彬の事績を中心に、正室や子孫との関係、島津久光との藩内対立、さらには死因にまつわる説までを幅広くわかりやすく解説します。
歴史の教科書では語りきれない、人物としての魅力にも迫ります。

この記事を読むとわかること

  • 島津斉彬が何をした人かとその代表的な功績
  • 篤姫や西郷隆盛との関係と影響
  • 斉彬の正室や子孫に関するエピソード
  • 島津久光や死因をめぐる背景と真相
目次

幕末の先覚者!島津斉彬は何をした人か?その功績に迫る

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  • 島津斉彬の輝かしい功績と集成館事業
  • 日本の近代化へのビジョンと日の丸制定
  • 西郷隆盛との関係と維新を担う人材育成
  • 斉彬の思想とリーダーシップ:言行録より
  • 将軍継嗣問題と幕政への積極的な関与

島津斉彬の輝かしい功績と集成館事業

島津斉彬は、幕末という激動の時代において、薩摩藩の近代化を強力に推し進め、日本の将来を見据えた数多くの事業に着手した人物です。

彼の功績の中でも特に名高いのが「集成館事業」と呼ばれる一連の殖産興業政策でしょう。

これは、藩の財政を豊かにし、軍事力を強化することで、欧米列強の脅威から日本を守ることを目的とした壮大なプロジェクトでした。

集成館事業の始まりとその目的

斉彬が薩摩藩第11代藩主に就任したのは嘉永4年(1851年)のことです。

藩主となるやいなや、彼はかねてより構想していた富国強兵策を次々と実行に移しました。

その中核をなしたのが、現在の鹿児島市磯地区に建設された工場群「集成館」です。

ここで特筆すべきは、集成館が日本初の本格的な洋式工場群であったという点です。

斉彬は、西洋の進んだ科学技術を導入し、日本人の手で兵器や工業製品を生産することの重要性を深く認識していました。

このため、オランダの書物などを参考に、反射炉や溶鉱炉の建設に着手し、大砲鋳造を目指したのです。

技術導入の苦難と斉彬のリーダーシップ

しかし、未知の技術を導入する道のりは平坦ではありませんでした。

例えば、大砲製造に不可欠な反射炉の建設では、最初の1号炉が失敗に終わっています。

これに対し、斉彬は担当者たちを「西洋も佐賀も人間がやっていること。同じ人間である薩摩人にできないことはない」と励まし、ついに2号炉を完成させました。

この言葉からは、困難に屈せず、自国の技術力を信じて挑戦を続ける斉彬の強い意志とリーダーシップがうかがえます。

集成館では、大砲や砲弾のほか、洋式帆船「いろは丸」や日本初の国産蒸気船「雲行丸」などが建造されました。

特に「昇平丸」は幕府に献上され、後の蝦夷地開拓でも活躍するなど、当時の日本の造船技術の高さを象徴しています。

多岐にわたる産業の育成

集成館事業は軍事産業に留まらず、ガラス製造や紡績、ガス灯の開発など、多岐にわたりました。

中でもガラス製品は「薩摩切子」として知られ、その美しさと技術の高さから、大名間の贈答品としても珍重されました。

透明なガラスに色ガラスを被せ、精巧なカットを施す薩摩切子は、斉彬の美的センスと殖産興業への情熱が結晶したものと言えるでしょう。

また、これらの工場では約1,200人もの人々が働いていたとされ、地域の雇用創出にも貢献しました。

斉彬の先見性は、単に西洋技術を模倣するのではなく、それを日本の風土や文化と融合させ、新たな価値を創造しようとした点にあります。

彼の急逝により、集成館事業の全てが計画通りに進んだわけではありませんでしたが、ここで培われた技術や精神は、後の日本の近代化に大きな影響を与えたことは間違いありません。

現在、尚古集成館としてその一部が保存されており、当時の日本の夜明けを告げる力強い息吹を感じ取ることができます。

日本の近代化へのビジョンと日の丸制定

島津斉彬が目指したのは、単なる薩摩藩の富国強兵に留まらず、日本全体の近代化と国際社会における地位向上でした。

彼は、海外の情報を積極的に収集し、欧米列強のアジア進出という厳しい国際情勢を正確に把握していました。

特に、隣国である清がアヘン戦争でイギリスに敗れた事実は、斉彬に強い衝撃を与え、日本の将来に対する深い危機感を抱かせたのです。

海防の重要性と国家意識の醸成

「海からやってくる敵は、海で防がなければならない」という斉彬の言葉は、彼の国防に対する明確なビジョンを示しています。

前述の通り、集成館事業において洋式軍艦の建造を推進したのも、この考えに基づいています。

実物を一度も見たことがないにもかかわらず、外国の書物や図面だけを頼りに蒸気船「雲行丸」を完成させたエピソードは、彼の先見性と実行力を物語っています。

しかし、斉彬の近代化構想は、軍事面の強化だけに止まりませんでした。

彼が重要視したのは、日本が国家としてまとまり、国際社会において対等な立場を築くことでした。

その象徴的な取り組みの一つが、「日の丸」の制定への関与です。

ペリー来航以降、外国船と日本の船を識別する必要性が高まる中で、斉彬は日本の総船印として白地に日の丸のデザインを幕府に進言しました。

これが後に日本の国旗として定着していく礎となったのです。

この提案には、単なる識別のための印というだけでなく、国民の意識を一つにまとめ、国家としてのアイデンティティを確立しようとする斉彬の狙いがあったと考えられます。

貿易による国づくりと新技術への挑戦

さらに斉彬は、将来的な海外との貿易を見据え、付加価値の高い製品開発にも力を入れました。

薩摩切子や薩摩焼といった美術工芸品は、その代表例です。

これらの製品は、海外の市場で高い評価を得ることを期待されており、実際に薩摩焼は明治時代になると「SATSUMA」ブランドとしてヨーロッパで人気を博しました。

また、国民生活の向上にも目を向けており、ヨーロッパの工場で機械によって大量生産される綿糸の情報を得ると、水車を動力とした紡績機械の開発に着手しました。

これは、国内産業の保護と育成という視点からの取り組みでした。

ガス灯の日本初の実用化や、電信、写真技術といった新しい技術にも強い関心を示し、積極的に実験を行っています。

これらの技術が将来の国民生活を豊かにし、日本の国力を高める基盤になると考えていたのです。

斉彬のビジョンは、西洋の技術をただ導入するのではなく、それを日本の実情に合わせて改良し、日本独自の文化と融合させながら、国全体を発展させていこうという壮大なものでした。

もちろん、こうした急進的な改革には莫大な費用が伴い、藩内外からの抵抗も予想されましたが、彼の強い意志と先見性が、幕末日本が向かうべき道筋を照らしたと言えるでしょう。

西郷隆盛との関係と維新を担う人材育成

島津斉彬の功績を語る上で欠かせないのが、西郷隆盛や大久保利通といった、後の明治維新で中心的な役割を果たす多くの優れた人材を見出し、育て上げたことです。

斉彬は、家柄や身分にとらわれることなく、能力のある者、志の高い者を積極的に登用しました。

これは、旧来の慣習が根強く残る封建社会においては、非常に革新的なことであったと言えます。

西郷隆盛の発見と登用

特に西郷隆盛との出会いは、両者にとって、そして日本の歴史にとっても大きな転機となりました。

西郷は当時、薩摩藩の下級武士の出身でしたが、斉彬はその非凡な才能と人間性を見抜き、身近に仕えさせました。

庭方役(お庭番)という役職は、藩主の側近として直接意見を述べたり、藩内外の情報を収集したりする重要な役割を担っており、斉彬が西郷に寄せた信頼の大きさがうかがえます。

斉彬は西郷を単なる側近としてだけでなく、自らの思想や国家観を共有する同志として、また、将来の日本を担うリーダーとして育成しようとしました。

西郷を伴って他の有力大名と会談したり、幕政に関する重要な情報を共有したりするなど、実践的な教育を施したのです。

西郷自身も斉彬を深く敬愛し、その薫陶を受けました。

斉彬の急逝を知った際には、後を追って殉死しようとしたほど、その結びつきは強固なものでした。

勝海舟が後に語ったところによれば、西郷と勝を引き合わせたのも斉彬であり、この出会いが後の江戸無血開城につながることを考えると、斉彬の人材育成が歴史に与えた影響の大きさを改めて感じさせられます。

身分によらない人材登用とその思想

斉彬の人材登用に関する考え方は、『島津斉彬言行録』にも記されています。

例えば、「君主は愛憎で人を判断してはならない」という言葉は、情実にとらわれることなく、客観的な能力評価に基づいて人材を登用すべきであるという彼の信念を示しています。

また、「十人が十人とも好む人材は非常事態に対応できないので登用しない」という言葉からは、画一的な人物よりも、多様な意見を持ち、困難な状況でも的確な判断を下せるような骨のある人物を求めていたことがわかります。

このような考え方に基づき、斉彬は西郷隆盛や大久保利通だけでなく、多くの若者たちに活躍の場を与え、彼らの能力を最大限に引き出そうとしました。

自ら範を示し、彼らに大きな仕事を任せることで、無意識のうちに影響を与え、成長を促す「感化教育」も斉彬の特徴的な人材育成法だったと言えるでしょう。

斉彬自身が藩主であった期間は7年余りと決して長くはありませんでしたが、彼が蒔いた人材育成の種は、その死後も薩摩藩の中で力強く芽吹き、やがて明治維新という大きな変革を成し遂げる原動力となったのです。

一方で、斉彬という傑出した指導者の存在に大きく依存していた側面も否定できず、彼の死が薩摩藩、ひいては日本にとって大きな損失であったことは言うまでもありません。

斉彬の思想とリーダーシップ:言行録より

島津斉彬が幕末の日本において、なぜあれほどまでに先駆的な役割を果たし得たのか。

その答えを探る上で重要な手がかりとなるのが、彼の言葉や行動からうかがえる独自の思想と、それを具現化する卓越したリーダーシップです。

幸いなことに、彼の思想の一端は『島津斉彬言行録』などの記録を通じて今日に伝えられています。

民を想う心と国家観

斉彬の思想の根底には、常に民衆の生活安定への配慮と、日本の将来に対する深い洞察がありました。

例えば、彼が米価の変動に強い関心を持っていたことはよく知られています。

藩主として鹿児島に帰着した際、西郷隆盛に対して米価について問いかけ、「米価は民の生活を左右するので、それが分からなかったら国政は行えない」と諭したという逸話は、民生の安定こそが国家運営の基本であるという彼の考えを端的に示しています。

また、西洋技術の導入に際しても、単に物珍しさや軍事力強化のためだけではなく、それが最終的に日本の産業を発展させ、人々の暮らしを豊かにすることにつながるという視点を持っていました。

「西洋人も人なり、佐賀人も人なり、薩摩人も人なり、退屈せずますます研究すべし」という集成館事業の際の言葉は、技術導入における困難を乗り越え、日本人自身の力で成し遂げることの重要性を説くとともに、国民全体の自信と誇りを醸成しようとする意図が感じられます。

彼の国家観は、薩摩藩という一地方の枠を超え、日本全体が国際社会の中でいかにして独立を保ち、発展していくかという大きな視野に立脚していました。

先進的な人材活用と決断力

斉彬のリーダーシップは、その人材活用術にも色濃く表れています。

前述の通り、「君主は愛憎で人を判断してはならない」や「十人が十人とも好む人材は非常事態に対応できない」といった言葉は、彼の公平かつ戦略的な人材登用の考え方を示しています。

身分や家柄にとらわれず、能力と志を持つ者を見抜き、重要な役割を与えることで、組織全体の活力を高めようとしました。

また、斉彬は非常に好奇心旺盛で、新しいものに対する受容性が高い人物でもありました。

自らアルファベットを学び、写真撮影にも挑戦するなど、西洋の文化や技術に対する理解を深めようと努めたことは、彼の柔軟な思考と行動力を示しています。

そして、彼のリーダーシップを語る上で欠かせないのが、「勇断なき人は事を為すあたわず」という言葉に象徴される決断力です。

幕末という先の見えない混乱期において、彼は日本の進むべき道を明確に示し、強い意志を持って改革を断行しました。

もちろん、その先進的な思想や大胆な政策は、当時の保守的な人々からは理解されにくく、反発を招くこともあったかもしれません。

しかし、彼の描いた「強く豊かな日本を目指して」というスローガンと、それを実現するための具体的な行動は、多くの人々に影響を与え、日本の近代化への道を切り拓く大きな力となったのです。

将軍継嗣問題と幕政への積極的な関与

島津斉彬の活動は、薩摩藩内での改革に留まらず、日本の中央政局、特に幕政に対しても大きな影響力を及ぼしました。

当時の日本は、ペリー来航以来、開国か攘夷か、そして幕府のあり方をどうするかという国家的な課題に直面していました。

斉彬は、この国難を乗り越えるためには、強力かつ賢明な指導者の下で幕府が一致団結し、国政改革を断行する必要があると考えていました。

国難打開のための政治行動

斉彬が幕政に積極的に関与する大きなきっかけとなったのが、第13代将軍・徳川家定の将軍継嗣問題です。

家定公は病弱で、後継者となるべき子供がいませんでした。

このため、次の将軍を誰にするかという問題が、幕末の政局を揺るがす大きな争点となったのです。

斉彬は、水戸藩主・徳川斉昭の子である一橋慶喜(後の徳川慶喜)を次期将軍に擁立しようとしました。

慶喜は英明で知られており、斉彬は彼こそがこの難局を乗り切れる指導者だと期待したのです。

この擁立運動には、福井藩主・松平慶永、宇和島藩主・伊達宗城、土佐藩主・山内豊信といった、いわゆる「四賢侯」と呼ばれる開明的な大名たちも同調し、一大勢力を形成しました。

斉彬は、老中首座であった阿部正弘とも連携し、幕政改革の一環として公武合体(朝廷と幕府の協調)や武備開国(軍備を整えた上での開国)を訴えました。

篤姫の輿入れと井伊直弼との対立

将軍継嗣問題において、斉彬が打った重要な布石の一つが、養女・篤姫(後の天璋院)を将軍家定の正室として送り込んだことです。

これは、大奥を通じて幕府内部に影響力を行使し、慶喜擁立を有利に進めようとする戦略的な一手でした。

しかし、斉彬らの動きに対し、幕府内では彦根藩主・井伊直弼を中心とする勢力が、紀州藩主・徳川慶福(後の徳川家茂)を擁立しようと画策します。

血筋の近さを重視する井伊派と、人物の才覚を重視する斉彬派の対立は深まり、安政5年(1858年)に井伊直弼が大老に就任すると、事態は大きく動きます。

井伊直弼は強権を発動し、慶福を将軍継嗣と決定。

さらに、反対派であった徳川斉昭や松平慶永らを処分し、いわゆる「安政の大獄」を開始しました。

上洛計画と突然の死

この井伊直弼の強硬な姿勢に対し、斉彬は藩兵5,000人を率いて上洛し、朝廷を通じて幕府に抗議するという計画を立てます。

これは、事実上の武力行使も辞さないという強い決意の表れでした。

しかし、その準備を進めていた矢先の安政5年7月、斉彬は鹿児島城下での練兵を観覧中に突然発病し、間もなくこの世を去ってしまいました。享年50。

彼の死により、上洛計画は頓挫し、幕政改革の夢も潰えることとなりました。

斉彬の構想が実現していれば、その後の日本の歴史は大きく変わっていたかもしれません。

彼の幕政への積極的な関与は、結果として大きな成果を上げる前に終わりましたが、その行動と思想は、後の討幕運動や明治維新へと繋がる伏線の一つとなったと言えるでしょう。

中央政界への深い関与は、藩財政への負担や藩内保守派との軋轢を生んだ可能性も否定できませんが、国家全体の将来を憂う彼の強い使命感が、そうした行動へと駆り立てたのです。

島津斉彬は何をした人か?その生涯と人間模様を探る

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  • 島津斉彬の正室と気になる子孫たち
  • 養女・篤姫との絆と将軍家への輿入れ
  • 弟・島津久光との関係性と藩内の対立
  • 英雄の早すぎる死、島津斉彬の死因とは
  • 四賢侯の一人、島津斉彬の多角的な評価
  • 島津斉彬が後世に与えた影響

島津斉彬の正室と気になる子孫たち

島津斉彬の華々しい功績の陰で、彼の私生活、特に家族についてはあまり知られていないかもしれません。

しかし、彼の血筋や家族関係は、その人間性や時代背景を理解する上で興味深い側面を持っています。

斉彬の正室は、栄樹院(えいじゅいん)、名は恒姫(つねひめ)といいました。

彼女は御三卿の一つ、一橋家の当主であった徳川斉敦(とくがわなりあつ)の娘であり、非常に高貴な家柄の出身です。

文政年間、斉彬がまだ若き日に輿入れし、彼を支えましたが、残念ながら二人の間に子供が生まれることはありませんでした。

栄樹院は安政5年(1858年)に亡くなっており、斉彬が亡くなるわずか数ヶ月前のことでした。

彼女に関する詳しい記録は多くありませんが、激動の時代を生きた夫を静かに見守っていたことでしょう。

斉彬には複数の側室がおり、彼女たちとの間に多くの子女をもうけました。

記録によれば、少なくとも6男5女、合計11人の子供たちがいたとされています。

しかし、当時の医療水準は現代とは比べようもなく、また乳幼児の死亡率も高かったため、斉彬の子供たちの多くは残念ながら幼くしてこの世を去りました。

斉彬の子供たち

側室であった酒井忠藎(さかいただこと)の娘との間には、長女・澄姫(すみひめ)と次女・邦姫(くにひめ)が生まれましたが、いずれも数えで4歳、2歳で夭逝しています。

また、田宮安知(たみややすとも)の娘との間には三男・盛之進(もりのしん)と五男・虎寿丸(とらじゅまる、後の儔次郎(ともじろう))がいましたが、盛之進は3歳、虎寿丸は6歳で亡くなりました。

旗本・横瀬克己(よこせかつみ)の娘との間にも次男・寛之助(ひろのすけ)がいましたが、4歳で早世しています。

無事に成人したのは、側室・伊集院須磨(いじゅういんすま)との間に生まれた三人の娘たち、すなわち三女・暐姫(てるひめ)、四女・典姫(のりひめ)、五女・寧姫(やすひめ)だけでした。

伊集院須磨は伊集院兼珍(かねたか)の養女で、斉彬の子供たちの中で最も多くの子を産み育てた女性です。

彼女との間には、篤之助(あつのすけ)という四男もいましたが2歳で、そして斉彬の世子として期待された六男・哲丸(てつまる)もわずか3歳で夭逝してしまいました。

この哲丸の死により、島津斉彬の直系男子は途絶えることとなります。

女系子孫の広がり

成人した三人の娘たちは、いずれも斉彬の異母弟である島津久光(ひさみつ)の息子たちに嫁ぎました。

暐姫と寧姫は、久光の長男で斉彬の養嗣子となった島津忠義(ただよし)にそれぞれ正室、継室として嫁ぎましたが、二人とも難産などが原因で若くして亡くなっています。

唯一、四女の典姫は久光の三男・島津珍彦(うずひこ)に嫁ぎ、子宝にも恵まれ、明治36年(1903年)まで比較的長生きしました。

このため、島津斉彬の血筋は、典姫を通じて女系ではありますが島津家の諸分家などで現代まで続いていることになります。

興味深いことに、斉彬の母である弥姫(いよひめ、周子)は、鳥取藩主・池田治道と仙台藩主・伊達重村の娘・生姫(いくひめ)との間に生まれた人物で、その血筋を遡ると織田信長、徳川家康、伊達政宗、毛利元就といった戦国時代の英雄たちに繋がるとされています。

このような豊かな血統を受け継いだ斉彬でしたが、彼自身の直系男子が続かなかったことは、時代の制約とはいえ、一つの歴史の綾と言えるかもしれません。

養女・篤姫との絆と将軍家への輿入れ

島津斉彬の政治的戦略と人間的側面を語る上で、養女・篤姫(あつひめ)、後の天璋院(てんしょういん)の存在は非常に大きな意味を持ちます。

篤姫の徳川将軍家への輿入れは、単なる縁組に留まらず、幕末の複雑な政治状況の中で斉彬が描いた壮大な構想の一環でした。

篤姫は、薩摩藩の分家である今和泉島津家の当主・島津忠剛(ただたけ)の娘として生まれました。

幼い頃から聡明で、気丈な性格であったと伝えられています。

斉彬は、この篤姫の資質を見抜き、自らの養女として迎え入れました。

表向きは家格を上げるためとされましたが、斉彬には明確な政治的意図があったのです。

それは、篤姫を第13代将軍・徳川家定(いえさだ)の正室(御台所)として送り込み、大奥から幕政に影響力を行使すること、そして何よりも将軍継嗣問題において自らが推す一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)の擁立を有利に進めるためでした。

篤姫への期待と教育

斉彬は篤姫に対し、単に政略の駒としてではなく、深い期待とある種の情愛をもって接していたと考えられています。

養女とするにあたり、彼女に様々な教育を施し、大奥という特殊な世界で生き抜き、さらには国事に関わる重要な役割を担えるよう育成しようとしました。

当時の女性としては珍しく、政治的な問題についても意見を交わすことがあったかもしれません。

篤姫自身も、斉彬の期待に応えようと努め、その教えを真摯に受け止めていたことでしょう。

安政3年(1856年)、篤姫は近衛家の養女という形を経て、ついに江戸城大奥へと入り、徳川家定の御台所となりました。

しかし、夫である家定は病弱であり、また将軍継嗣問題は斉彬の思惑通りには進みませんでした。

斉彬の死と篤姫のその後

篤姫が輿入れしてからわずか2年後の安政5年(1858年)、斉彬は志半ばで急逝します。

この突然の訃報は、遠く江戸の地にいた篤姫にとって計り知れない衝撃であったことでしょう。

最大の庇護者であり、理解者でもあった養父を失い、彼女の立場は非常に困難なものとなりました。

将軍継嗣は井伊直弼ら反対派が推す徳川慶福(後の家茂)に決定し、斉彬の目指した幕政改革は頓挫します。

しかし、篤姫はその後も天璋院として大奥で強い影響力を保ち続けました。

夫・家定、そして次の将軍・家茂の相次ぐ死、さらには江戸幕府の終焉という激動の時代の中で、彼女は徳川家の存続と大奥の人々のために尽力し、その聡明さと気丈さで多くの困難を乗り越えました。

斉彬が篤姫に託した「日本のために」という思いは、形は変われど、彼女の中で生き続けていたのかもしれません。

ちなみに、斉彬は年下の大叔父である八戸藩主・南部信順(なんぶのぶのり)の強い勧めにより、篤姫とともに日蓮正宗総本山大石寺の檀越となったという記録もありますが、彼らがその教義にどこまで深く帰依していたかについては、さらなる研究の余地があるとされています。

斉彬と篤姫の関係は、政略を超えた父娘の絆、そして国を憂う同志としての一面も持ち合わせていたと言えるのではないでしょうか。

弟・島津久光との関係性と藩内の対立

島津斉彬の生涯を語る際、しばしば対比的に取り上げられるのが、異母弟である島津久光(ひさみつ)の存在です。

特に斉彬が藩主になる前に起こったお家騒動「お由羅騒動(高崎崩れ)」は、斉彬派と久光派の対立として描かれることが多く、二人の関係が険悪であったかのような印象を与えがちです。

しかし、実際の兄弟仲や藩内の対立構造は、より複雑な側面を持っていました。

お由羅騒動は、第10代藩主・島津斉興(なりおき)の後継者を巡る争いで、斉興の側室であったお由羅の方が実子である久光を藩主に擁立しようと画策し、これに対して斉彬を推す家臣たちが反発した事件です。

この騒動の結果、斉彬派の家臣多数が処罰されましたが、最終的には老中・阿部正弘らの介入もあり、嘉永4年(1851年)に斉彬が第11代藩主に就任しました。

この一連の出来事により、斉彬と久光の間には埋めがたい溝ができたと一般的には考えられています。

兄弟関係の実像

しかし、近年の研究や資料からは、斉彬自身は久光のことを必ずしも敵視していなかった可能性が示唆されています。

いくつかの記録によれば、斉彬は異母弟である久光との仲を良好に保とうと努め、藩主就任後はむしろ重用しようと考えていたとさえ言われています。

斉彬がお由羅の方を大変嫌っていたことは事実のようですが、だからといって久光やお由羅派の一掃まで考えていたわけではなかったようです。

むしろ、斉彬の性格からすれば、個人的な感情よりも藩全体の安定と発展を優先し、有能であれば誰であっても登用する度量を持っていたと考えられます。

斉彬死後の久光の役割

斉彬が安政5年(1858年)に急逝すると、その遺言により久光の長男・茂久(もちひさ、後の島津忠義)が斉彬の養嗣子として跡を継ぎました。

そして、藩の実権は久光が「国父」として握ることになります。

久光は、斉彬の急進的な開明路線とは異なり、公武合体を軸とした漸進的な改革を目指しました。

この政策の違いや、西郷隆盛ら斉彬派の家臣たちとの確執などから、両者の路線対立が強調されることもあります。

確かに、久光は西郷を遠島に処すなど、斉彬派とは相容れない面もありました。

しかし、久光もまた薩摩藩の将来を憂い、独自のやり方で国事に奔走した人物であることは間違いありません。

例えば、久光は斉彬が頓挫した率兵上京を実行し、幕政改革を要求するなど、兄の遺志を継ぐかのような行動も見せています。

対立構造の背景

藩内の対立は、単に斉彬と久光という兄弟間の個人的な感情の問題だけでなく、藩が抱える財政問題、外交政策、そして藩政の主導権を巡る様々な勢力の思惑が複雑に絡み合っていたと考えられます。

斉彬の洋学好みや積極的な事業展開は、藩財政の逼迫を懸念する勢力からの反発を招きやすく、それが久光を旗頭とする反対派の形成に繋がった側面もあるでしょう。

斉彬がもう少し長生きしていれば、久光との関係がどのように変化し、薩摩藩がどのような道を歩んだのか、歴史の「もしも」を考えさせられます。

いずれにしても、斉彬と久光という二人の指導者の存在が、幕末の薩摩藩を、そして日本を大きく動かした原動力の一つであったことは確かです。

英雄の早すぎる死、島津斉彬の死因とは

幕末の日本に大きな変革をもたらそうとしていた島津斉彬は、その志半ばにして、あまりにも突然にこの世を去りました。

安政5年7月16日(新暦1858年8月24日)、享年50(満49歳)という若さでした。

彼の死は、薩摩藩だけでなく、日本の将来にも大きな影響を与え、その死因については様々な憶測が飛び交うことになります。

斉彬が亡くなる直前の状況は、まさに彼が次なる大きな一手として計画していた、藩兵5,000人を率いての上洛準備の最中でした。

鹿児島城下で出兵のための練兵を観覧していた際に突然体調を崩し、その後わずか数日で帰らぬ人となったのです。

あまりにも急な展開であり、その死が大きな謎に包まれたのも無理はありません。

公式な死因と囁かれる暗殺説

公式に伝えられている斉彬の死因は、当時日本各地で流行していたコレラ(虎狼痢)であるとされています。

高温多湿な夏場に流行しやすく、激しい下痢や嘔吐を引き起こし、脱水症状によって死に至る恐ろしい病でした。

当時の医療水準では有効な治療法も確立されておらず、感染すれば多くの人が命を落としていました。

斉彬の症状もコレラに似ていたとされ、この説は一定の信憑性を持っています。

しかし、そのあまりにもタイミングの良い(あるいは悪すぎる)死は、多くの人々に疑念を抱かせました。

特に、斉彬が進めていた幕政改革や将軍継嗣問題において、幕府内の保守派、とりわけ大老・井伊直弼との対立が先鋭化していた時期であったため、政敵による暗殺説が根強く囁かれたのです。

また、斉彬の子供たちの多くが幼くして亡くなっていることと関連付けて、何者かが島津家の血筋を絶やそうとしているのではないかという憶測も生まれました。

一部では、父である島津斉興や、異母弟の島津久光、あるいはその周辺の者たちが関与したのではないかという説まで流れましたが、前述の通り斉彬と久光の兄弟仲は必ずしも険悪ではなかったとされることから、久光主導の暗殺は考えにくいという見方もあります。

西郷隆盛は、斉彬の死は毒殺であると信じていたと言われています。

真相の行方

実際のところ、斉彬の正確な死因を特定することは現代においても困難です。

当時の記録や医学的知見だけでは、コレラであったのか、それとも別の急病であったのか、あるいは本当に何らかの人為的な要因が絡んでいたのかを断定することはできません。

ただ、彼の死が、井伊直弼ら反対勢力にとって有利に働いたことは事実であり、それゆえに暗殺説が消えることはなかったのでしょう。

斉彬の死は、彼が進めていた上洛計画を頓挫させ、薩摩藩の政治的立場にも大きな変化をもたらしました。

そして何よりも、日本の近代化を牽引するはずだった卓越した指導者を失ったことは、日本全体にとって計り知れない損失でした。

彼の法名は「順聖院殿英徳良雄大居士(じゅんしょういんでんえいとくりょうゆうだいこじ)」といい、墓所は鹿児島県鹿児島市池之上町の玉龍山福昌寺跡にあります。

その功績を称え、死後には従三位権中納言、さらには照国大明神の神号が贈られ、最終的には正一位にまで追贈されました。

彼の早すぎる死は、今なお多くの人々に惜しまれています。

四賢侯の一人、島津斉彬の多角的な評価

島津斉彬は、幕末の動乱期において際立った指導力と先見性を示し、同時代を生きた多くの人々、そして後世の歴史家からも高く評価されています。

特に、福井藩主・松平慶永(春嶽)、土佐藩主・山内豊信(容堂)、宇和島藩主・伊達宗城と並んで「幕末の四賢侯」と称されることは、彼の存在がいかに重要であったかを物語っています。

ここでは、様々な人物による斉彬への評価を通じて、その多面的な人物像に迫ります。

同時代の藩主たちからの称賛

松平春嶽は、斉彬を「大名第一番の御方であり、自分はもちろんのこと、水戸烈公(徳川斉昭)、山内容堂公なども及ばない」と最大級の賛辞を贈っています。

春嶽によれば、斉彬は「性質温恭忠順、賢明にして大度有所(たいどありどころ)」であり、「天下の英明なるは、実は近世第一なるべし」と、その温厚篤実な人柄と卓越した知性を称えています。

また、「御一新の功業を引起せし原由は、島津斉彬にして、この人は余が朋友とし、師とするものなり」と述べ、明治維新の源流に斉彬の存在があったことを指摘しています。

伊達宗城もまた、「予年七十に及ぶまで、東西、内外、上下、貴賎を問わず、広く天下の人に接せしも、未だ斉彬の如く敬慕の情深き人物を見ず」と語り、斉彬の人間的魅力と徳の高さに深く感銘を受けていたことがうかがえます。

幕臣や側近たちが見た斉彬像

幕臣であった勝海舟は、斉彬を「えらい人だったよ。西郷を見抜いて庭番に用いた所などはなかなかえらい」と、その人材眼を高く評価しています。

また、「度量遠大、一世を籠罩(ろうちょう)するの概あり」と、その器の大きさを称賛し、彼の早すぎる死を「皇国の一大不幸」と惜しんでいます。

斉彬の側近であった市来四郎は、斉彬の記憶力の良さ、幅広い学識(程朱の学、仏学、儒学、和歌、詩など)、そして学んだことを実地に行う力を証言しています。

夜分に学者を呼んで話を聞くなど、常に知的好奇心を持ち続けていた様子が伝わってきます。

同じく側近であった寺島宗則は、「斉彬公は脳が二つあったかと思う」と、複数の物事を同時に処理できる並外れた能力を称賛しています。

明治の元勲による評価

後に初代内閣総理大臣となる伊藤博文も、斉彬を「彼の御方は非常の豪傑で卓絶した人であった」と高く評価しています。

長崎からオランダ人を招いた際に、石を投げる領民に対し「石を投げるなら己れにも輿に投げろ」と言ったという逸話を引き、「凡庸の大名の出来る事ぢゃない」とその非凡さを称えています。

また、綿の将来性に着眼していたというエピソードからは、斉彬の驚くべき先見性がうかがえます。

これらの評価を総合すると、島津斉彬は、温厚で誠実な人柄でありながら、日本の将来を見通す鋭い洞察力と先見性、そして困難な改革を断行する強い意志と実行力を兼ね備えた、稀有なリーダーであったことがわかります。

単に西洋の技術を模倣するのではなく、日本の国情に合わせてそれを活用し、国民全体の利益を考えるという高い視座を持っていた点も、彼が「賢侯」と称される所以でしょう。

彼の存在は、幕末の日本にとってまさに光明であり、その早すぎる死が惜しまれてなりません。

島津斉彬が後世に与えた影響

島津斉彬が薩摩藩主として在位した期間は、嘉永4年(1851年)から安政5年(1858年)までのわずか7年余りでした。

しかし、この短い期間に彼が成し遂げた業績と、彼が示したビジョンは、その後の日本の歴史、特に明治維新とその後の近代化に計り知れないほど大きな影響を与えました。

斉彬が蒔いた種は、彼の死後も力強く芽吹き、日本の未来を形作る上で不可欠な要素となったのです。

技術革新の礎としての集成館事業

斉彬が心血を注いだ集成館事業は、日本の近代工業化の先駆けとなるものでした。

反射炉や溶鉱炉の建設、洋式造船、蒸気機関の開発、さらにはガラス製造やガス灯の導入といった試みは、当時の日本においては画期的なものでした。

これらの事業を通じて培われた技術や知識、そして何よりも「日本人の手で近代技術を成し遂げる」という精神は、後の技術者たちに受け継がれました。

斉彬の死後、薩英戦争によって集成館の施設は一部破壊されましたが、その経験を通じて西洋の技術力の高さを痛感した薩摩藩は、むしろさらに積極的に西洋技術の導入と研究を進めるようになります。

これは、斉彬が示した方向性を継承し、発展させたものと言えるでしょう。

これらの技術的遺産は、明治政府による殖産興業政策の基盤の一つとなり、日本の急速な工業化を支えました。

明治維新を担った人材の育成

斉彬の最大の功績の一つは、西郷隆盛や大久保利通といった、明治維新を指導する傑出した人材を見出し、育成したことです。

身分にとらわれず能力本位で人材を登用し、彼らに重要な任務を任せ、実践の中で教育を施すという斉彬の方針は、旧態依然とした封建社会に新しい風を吹き込みました。

彼から直接薫陶を受けた西郷や大久保らは、斉彬の死後もその遺志を胸に抱き、薩摩藩を討幕運動の中心勢力へと導きました。

そして明治新政府が樹立されると、彼らは政府の中核を担い、廃藩置県や地租改正、学制発布といった近代国家建設のための諸改革を断行しました。

斉彬がいなければ、これほど有能な指導者たちが歴史の表舞台に登場することはなかったかもしれません。

先見的な国家構想と国民意識の醸成

斉彬は、単なる藩の利益を超え、日本全体の将来を見据えた国家構想を持っていました。

開国と積極的な海外との交流、富国強兵による国家の自立、そして国民国家としてのまとまりの重要性を説きました。

日の丸を日本の総船印として提案したことは、国民意識の形成を促す象徴的な出来事でした。

彼のこのような先見的な思想は、明治政府の政策決定にも大きな影響を与え、日本が近代国家へと脱皮していく上での指針となりました。

特に、外国の脅威に対して日本が一体となって対応しなければならないという危機意識は、その後の日本の外交政策や国防政策の根底に流れるものとなります。

斉彬の生涯は、まさに「チェンジの時代のリーダー像」を体現するものでした。

将来を見据えた明確なビジョンを掲げ、困難を恐れずに改革を実行し、次世代の人材を育成する。

彼の生き様と功績は、時代を超えて私たちに多くの示唆を与えてくれます。

地元鹿児島をはじめ、日本各地で今なお敬愛され、照国神社に祭神として祀られていることからも、彼が後世に与えた影響の大きさがうかがえます。

その早すぎる死は惜しまれますが、彼が日本の歴史に残した足跡は、決して消えることはないでしょう。

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島津斉彬は何をした人なのか総括

島津斉彬の生涯と業績を振り返ると、幕末という激動の時代にあって、日本の未来を真摯に見据え、数多くの革新的な取り組みを行った先覚者であったことがよくわかります。
彼の行動は、その後の日本に大きな影響を与えました。

  • まず、薩摩藩の藩主として「集成館事業」を力強く推進し、日本初の本格的な洋式工場群を築き上げました。
  • 集成館では、反射炉や溶鉱炉を建設し、大砲や砲弾の国産化に挑戦しました。
  • 洋式帆船「いろは丸」や日本初の国産蒸気船「雲行丸」を建造するなど、造船技術の発展にも大きく貢献しています。
  • 美しい「薩摩切子」を生み出したガラス製造や、日本で初めてガス灯を灯すなど、多岐にわたる殖産興業を奨励しました。
  • これらの事業は、藩の富国強兵だけでなく、日本の近代工業化の礎を築くものでした。
  • 斉彬は、海外の情勢にも明るく、アヘン戦争の結果などから強い危機感を抱き、日本の近代化と国際的地位の向上を強く願っていました。
  • その象徴的な行動の一つが、日本の総船印として「日の丸」のデザインを幕府に進言し、後の国旗制定に関わったことです。
  • 将来の貿易を見据え、薩摩焼などの美術工芸品を輸出品として意識し、また国内産業保護の観点から綿糸紡績事業にも着手しました。
  • 人材育成にも熱心で、西郷隆盛や大久保利通といった身分にとらわれない有能な若者を見出し、重要な役割を与えながら育て上げました。
  • 彼の教育は、知識だけでなく実践を重んじ、後の明治維新を担う多くの指導者たちに大きな影響を与えたのです。
  • 中央政局にも積極的に関与し、第13代将軍・徳川家定の継嗣問題では、英明な一橋慶喜を擁立しようと尽力しました。
  • 養女・篤姫を徳川将軍家に嫁がせたのも、この将軍継嗣問題や幕政改革に影響力を持つための一環でした。
  • 『島津斉彬言行録』には、民衆の生活安定を願う心や、公平な人材登用、そして「勇断なき人は事を為すあたわず」といった彼の先進的な思想やリーダーシップ論が記されています。
  • 異母弟である島津久光とは、お家騒動など複雑な関係もありましたが、斉彬自身は久光を重用しようと考えていたとも言われています。
  • 安政5年、志半ばで急逝。公式な死因はコレラとされていますが、その突然の死は様々な憶測を呼びました。彼の早すぎる死は、日本の近代化にとって大きな損失であったと言えるでしょう。
  • 松平春嶽や勝海舟、伊藤博文など、同時代や後世の多くの人々から「幕末の四賢侯」の一人として、その先見性、実行力、人間性が高く評価されています。
  • 斉彬が残した技術、人材、そして国家を見据えた思想は、明治維新を成功に導き、その後の日本の発展に不可欠なものであり続けたのです。

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