西郷隆盛は何をした人?功績・人柄から愛犬エピソードまで簡単に解説!

西郷隆盛

「西郷隆盛」と聞けば、立派な体格に犬を連れた銅像を思い浮かべる方も多いでしょう。
しかし、「西郷隆盛は何をした人なの?」と改めて聞かれると、その具体的な功績や人となりを詳しく説明するのは意外と難しいかもしれませんね。
また、明治維新の英雄として知られる一方で、なぜ西南戦争で新政府と戦うことになったのか、その最期はどうだったのか、気になる点も多いのではないでしょうか。

この記事では、そんな西郷隆盛が日本の歴史において一体どのような役割を果たし、どんな「すごいところ」を持っていたのか、そして多くの人々を惹きつけたその温かい人柄や知られざるエピソードについて、歴史に詳しくない方にも簡単にわかりやすく解説します。
彼が成し遂げた数々の功績はもちろんのこと、盟友である大久保利通や坂本龍馬との関係、出身である薩摩藩との関わり、西南戦争に至る経緯と悲劇的な死因、彼を苦しめた病気の話、そして意外な愛犬家としての一面や最後の言葉に至るまで、西郷隆盛の多岐にわたる魅力と生涯を辿ります。

この記事を読むと、以下のことがわかります。

  • 西郷隆盛が日本の近代化に果たした主な功績
  • 多くの人々を惹きつけた西郷隆盛の人柄と有名なエピソード
  • 西南戦争が起こった背景と西郷隆盛の最期
  • 大久保利通や坂本龍馬といった重要人物との関係性
目次

西郷隆盛とは何をした人?その生涯と功績を簡単に

西郷隆盛1
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  • 西郷隆盛の功績を簡単に解説
  • 西郷隆盛の人柄がわかる有名なエピソード
  • 西郷隆盛は何藩の出身?薩摩藩との深い関わり
  • 盟友 大久保利通との心に残るエピソード
  • 坂本龍馬と西郷隆盛、その関係と協力

西郷隆盛の功績を簡単に解説

西郷隆盛は、日本の歴史が大きく揺れ動いた幕末から明治初期にかけて、新しい国づくりに極めて大きな役割を果たした人物です。

彼の功績は多岐にわたりますが、特に重要なものをいくつか挙げるならば、薩長同盟の締結、江戸城の無血開城、そして王政復古の成功と新政府における改革の断行が挙げられるでしょう。

これらの功績を理解することで、西郷隆盛が日本の近代化にいかに貢献したかが見えてきます。

まず、薩長同盟の締結です。

当時、幕府を倒して新しい日本を作ろうとする勢力の中でも、薩摩藩と長州藩は特に大きな力を持っていました。

しかし、両藩はそれまで対立関係にあり、簡単には手を結べない状況だったのです。

ここで大きな役割を果たしたのが、土佐藩の坂本龍馬でした。

彼の仲介により、西郷隆盛は長州藩の木戸孝允と会談し、1866年に薩長同盟を締結します。

この同盟は、倒幕運動を強力に推し進める原動力となり、後の明治維新へと繋がる大きな一歩となりました。

もしこの同盟がなければ、日本の歴史は大きく異なるものになっていたかもしれません。

次に、江戸城の無血開城です。

1868年、戊辰戦争が勃発し、新政府軍は旧幕府軍を各地で破り、ついに江戸城への総攻撃を決定します。

この時、新政府軍の参謀として指揮を執っていたのが西郷隆盛でした。

江戸が火の海になる寸前、西郷は旧幕府軍の代表である勝海舟と会談を行います。

両者は日本の将来を思い、江戸の町と百万の民を戦火から救うために話し合い、結果として江戸城は戦うことなく新政府軍に明け渡されることになりました。

この決断は、多くの人命と文化財を救っただけでなく、新政府への移行を比較的スムーズに進める上でも非常に大きな意味を持ちました。

西郷の度量の大きさと、大局を見据えた判断力が光る場面と言えるでしょう。

そして、王政復古のクーデターの成功と、その後の新政府における改革も西郷の重要な功績です。

1867年、西郷は薩摩藩の武力を背景に、岩倉具視らと協力して王政復古のクーデターを成功させ、徳川幕府による支配を終わらせました。

明治新政府が樹立されると、西郷は参議として政府の中心的な役割を担い、廃藩置県や学校制度の整備、徴兵制の導入など、日本の近代化に向けた数々の改革を断行していきました。

これらの改革は、封建的な体制から近代国家へと日本が生まれ変わるための基礎を築いたと言えます。

このように、西郷隆盛は幕末から明治にかけて、日本の進むべき道筋を決定づける数々の重要な場面で中心的な役割を担い、その行動力と決断力、そして人間的魅力をもって新しい時代を切り開いたのです。

彼の功績は、現代の日本にも大きな影響を与え続けています。

西郷隆盛の人柄がわかる有名なエピソード

西郷隆盛という人物を語る上で欠かせないのが、その人間的な魅力です。

彼の人柄は数々のエピソードから垣間見ることができ、多くの人々を引き付けた理由がよくわかります。

彼の思想の根幹には「敬天愛人(けいてんあいじん)」という言葉があり、これは「天を敬い、人を愛する」という意味です。

西郷はこの言葉を座右の銘とし、生涯を通じてその精神を貫こうとしました。

身分や性別、年齢に関わらず、誰に対しても分け隔てなく接し、慈愛の心を持っていました。

若い頃の西郷は、非常に頑固で、自分が正しいと信じたことは相手が誰であっても臆せずに意見を述べたと言われています。

その実直さゆえに、藩の役所に勤めていた頃は10年間も昇進できなかったという話も残っています。

しかし、その裏表のない性格が、後に藩主島津斉彬の目にとまるきっかけともなりました。

また、西郷は写真撮影をかたくなに拒んだことでも知られています。

明治天皇から写真の献上を求められた際にも断ったと言われるほどで、その理由については、暗殺を恐れたため、あるいは自身の姿を後世に残すことを潔しとしなかったためなど、諸説あります。

このエピソードからも、彼の確固たる信念や謙虚さがうかがえます。

愛犬家としての一面

西郷が愛犬家であったことは、上野公園の銅像が愛犬「ツン」を連れている姿からもよく知られています。

彼は狩猟を好みましたが、それは肥満解消のための運動という側面もあったようです。

医師から適度な運動を勧められた西郷は、大好きな犬を連れて山へ行き、ウサギ狩りなどを楽しんだと言われています。

東京の自宅では多い時には十数匹の犬を飼っていたとも伝えられており、犬たちへの深い愛情が感じられます。

この犬好きな一面は、西郷の温厚で優しい性格を象徴しているようにも思えます。

質素な生活と民衆への思いやり

西郷は贅沢を嫌い、非常に質素な生活を送っていました。

新政府で高い地位に就いた後も、その生活態度は変わらなかったと言われます。

例えば、盟友である大久保利通や岩倉具視の邸宅が広大であることを批判し、月給だけではそのような生活はできないはずだと、暗に不正を疑うような発言もしています。

薩摩の言葉で「ウドサァ(偉大な人、大きい人)」や「うどめ(巨眼)」といったあだ名で呼ばれることもありましたが、これは彼の大きな体躯だけでなく、懐の深さや威厳を表していたのかもしれません。

身長は約180cm、体重は100kgを超えていたとされ、当時の日本人としては非常に大柄でした。

しかし、その大きな体で、庶民の家の雨漏りを心配し、「日本中の家が雨漏りしている。我が家だけではない」と妻を諭したという逸話は、彼の民衆への深い思いやりと、私利私欲のなさをよく示しています。

また、京都の芸妓であった君尾の回想によれば、西郷は肥満の女性が好みだったという人間味あふれる一面も伝えられています。

これらのエピソードは、西郷隆盛が決して完璧な聖人君子ではなく、人間的な弱さや好みも持ち合わせながらも、常に民を思い、正義を貫こうとした人物であったことを物語っています。

だからこそ、彼は今もなお多くの人々から敬愛され続けているのでしょう。

西郷隆盛は何藩の出身?薩摩藩との深い関わり

西郷隆盛の生涯を理解する上で、彼が生まれ育った薩摩藩(現在の鹿児島県)との関わりは非常に重要です。

西郷は、薩摩藩の鹿児島城下、加治屋町で貧しい下級武士の長男として生まれました。

西郷家は大家族で生活は苦しかったと言われていますが、薩摩藩独特の「郷中(ごじゅう)」という青少年教育システムの中で、彼は武士としての精神や学問を叩き込まれました。

この郷中教育は、地域ごとに年長者が年少者を指導する自治的な組織で、後の彼の人間形成に大きな影響を与えたと考えられています。

ちなみに、後に盟友でありライバルともなる大久保利通も、西郷と同じ郷中で学んだ幼馴染でした。

島津斉彬による抜擢と影響

18歳で藩の役人となった西郷ですが、農村の実情に触れる中で藩政への疑問を抱き、改革を求める意見書を提出し続けます。

この意見書が、当時薩摩藩主であった島津斉彬(しまづなりあきら)の目に留まり、西郷の人生は大きな転機を迎えることになります。

斉彬は開明的で先見の明のある人物であり、身分の低い西郷の才能を見抜き、側近として抜擢しました。

西郷は斉彬のもとで江戸や京都などで活動し、国事に関わる中で多くの刺激を受け、政治家としての素養を磨いていきました。

斉彬の開国して富国強兵を目指すという考え方や、日本の将来を見据えた広い視野は、西郷の思想に深い影響を与え、後の彼の行動指針となっていったのです。

斉彬が急死した際には、西郷は殉死しようとしたほど深く傾倒していました。

不遇の時代と再起

しかし、斉彬の死後、藩の実権を握った島津久光(斉彬の弟)と西郷は意見が合わず、対立してしまいます。

これにより西郷は不遇の時代を送り、奄美大島、さらには沖永良部島へと二度も島流しにされてしまいました。

沖永良部島では劣悪な環境の牢に入れられ、健康を害した時期もありましたが、この苦難の経験が彼の人間性をさらに深めたとも言われています。

島での生活を通じて、彼は民の苦しみや中央政治から離れた場所での現実を肌で感じ、それが後の彼の政治思想にも影響を与えた可能性があります。

薩摩藩のリーダーとして

やがて、薩摩藩を取り巻く情勢が緊迫する中で、大久保利通らの尽力もあり西郷は赦免され、藩政に復帰します。

復帰後の西郷は、大久保利通とともに薩摩藩の指導者として、倒幕運動の中心的な役割を担うことになりました。

薩摩藩は、薩英戦争(1863年)でイギリスと直接交戦した経験から、外国の軍事力の強大さを認識し、藩の近代化を積極的に進めていました。

このような背景を持つ薩摩藩の強力な軍事力と、西郷の指導力、そして大久保の政治力が結びつき、薩摩藩は明治維新を推進する上で最も重要な藩の一つとなったのです。

西郷は、藩士たちからの人望も厚く、そのカリスマ性で多くの人々をまとめ上げ、国を動かす大きな力となっていきました。

明治維新後、参政として藩政改革にも取り組み、故郷である薩摩藩の発展にも尽力しています。

このように、西郷隆盛の生涯は、薩摩藩という土壌なくしては語れないほど深く結びついていたのです。

盟友 大久保利通との心に残るエピソード

西郷隆盛と大久保利通は、同じ薩摩藩の下級武士の家に生まれ、幼い頃からの知り合いでした。

3歳年下の大久保は、西郷と同じ郷中教育を受け、共に成長していきました。

二人は、明治維新という日本の大きな変革期において、時には手を取り合い、時には意見を違えながらも、国の将来を深く憂い、行動した盟友と言えるでしょう。

その関係性は、単なる協力者という言葉では表しきれない、複雑で深いものでした。

維新への道を共に歩む

若い頃から二人は互いの才能を認め合っていたと考えられます。

特に西郷が藩主島津斉彬に見出されて活躍し始めると、大久保もまた藩内で徐々に頭角を現していきます。

斉彬の死後、西郷が島流しに遭うなどの不遇の時代にも、大久保は藩内で力を蓄え、西郷の復帰に尽力しました。

そして、薩長同盟の締結や王政復古のクーデター、戊辰戦争といった明治維新の重要な局面において、西郷の軍事的な指導力と大久保の卓越した政治手腕は、互いに補い合いながら、新しい時代を切り開くための強力な推進力となりました。

新政府が樹立されると、二人は共に参議として政府の中枢を担い、廃藩置県などの困難な改革に取り組みました。

ある意味で、この時期が二人にとって最も蜜月な関係であったかもしれません。

周囲からは「西郷を知る者は大久保、大久保を知る者は西郷」と言われるほど、互いを深く理解し合っていたと伝えられています。

征韓論での決裂

しかし、明治6年(1873年)、朝鮮との国交問題を巡る「征韓論」で二人の意見は真っ向から対立します。

西郷は自らが使節として朝鮮に赴き、平和的に交渉することを主張しましたが、岩倉使節団として欧米を視察し帰国したばかりの大久保は、まずは内政を優先し国力を充実させるべきだと強く反対しました。

この対立は激しく、閣議での決定が覆された結果、西郷は政府を去り、鹿児島へと下野することになります。

この時、大久保は西郷の帰国を止めようと力を尽くしたものの、西郷はただ「イヤダ」とだけ言って去ってしまったと、後に大久保は寂しそうに語ったと言われています。

かつて固い絆で結ばれていた盟友との、あまりにもあっけない別れの言葉でした。

西南戦争と悲劇的な結末

その後、西郷は西南戦争で新政府軍と戦うことになり、かつての盟友である大久保が率いる政府と敵対する立場となってしまいます。

この戦争は西郷の敗北と自刃という悲劇的な結末を迎えました。

そして皮肉なことに、西南戦争の翌年、大久保利通もまた不平士族によって暗殺されてしまいます。

伝えられるところによれば、暗殺された際、大久保の懐には西郷からの手紙が大切にしまわれていたと言います。

最後まで互いのことを気にかけ、国の将来を案じていた二人の複雑な心情が偲ばれます。

西郷隆盛と大久保利通の関係は、友情、信頼、そして対立と、様々な要素が絡み合ったものでした。

目指す国の形は同じでも、その道のりや優先順位についての考え方の違いが、二人を分かつことになったのです。

しかし、彼らが日本の近代化に果たした役割は計り知れず、そのドラマチックな関係性は、今も多くの人々の心に深く刻まれています。

坂本龍馬と西郷隆盛、その関係と協力

幕末の動乱期において、日本の未来を大きく左右した人物として坂本龍馬と西郷隆盛の名は欠かせません。

土佐藩出身の浪士である坂本龍馬と、薩摩藩の指導者であった西郷隆盛。

出自も立場も異なる二人でしたが、日本の将来を憂い、新しい時代を切り開こうとする志において共鳴し、協力し合った関係でした。

特に、両者の協力関係の中で最も大きな功績として挙げられるのが、薩長同盟の締結です。

薩長同盟締結への道

当時、犬猿の仲とも言えるほど対立していた薩摩藩と長州藩は、それぞれが大きな力を持つ一方で、単独では幕府を倒すほどの力はありませんでした。

この両藩が手を結ぶことの重要性を早くから見抜いていたのが坂本龍馬です。

龍馬は、持ち前の行動力と交渉術、そして広い視野をもって、両藩の間に立ち、粘り強く同盟の必要性を説きました。

西郷隆盛もまた、龍馬の人物とその考えに触れる中で、旧来の藩同士の対立を超えて大局を見ることの重要性を認識し、長州藩との同盟へと舵を切る決断をします。

1866年、京都の薩摩藩邸(一説には小松帯刀邸)で、西郷と長州藩の木戸孝允が龍馬の仲介のもとで会談し、薩長同盟が密かに結ばれました。

この同盟は、その後の倒幕運動を加速させ、明治維新を実現するための決定的な転換点となりました。

龍馬の卓越したバランス感覚と、西郷の英断がなければ、この歴史的な同盟は成立しなかったかもしれません。

互いへの評価と言葉

西郷隆盛は坂本龍馬の器の大きさを高く評価していました。

「天下に有志あり、余多く之と交わる。然れども度量の大、龍馬に如くもの、未だかつて之を見ず。龍馬の度量や到底測るべからず」という言葉を残しており、龍馬の人間的なスケールの大きさに感嘆していたことがうかがえます。

一方、坂本龍馬もまた西郷隆盛を「大きくたたけば大きく響き、小さくたたけば小さく響く。もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だろう」と評しています。

これは、西郷の懐の深さや、相手に応じて柔軟に対応できる器量を見抜いた言葉と言えるでしょう。

互いにその非凡な才能と人間性を認め合っていたからこそ、身分や藩の違いを超えて協力関係を築くことができたのです。

具体的な協力の形

薩長同盟締結以外にも、二人の協力関係を示す具体的なエピソードが残されています。

例えば、長州藩が幕府との戦いで武器弾薬に窮していた際、薩摩藩の名義で武器や艦船を購入することを西郷が承諾したことや、逆に薩摩藩が兵糧米を必要とした際に長州藩から購入する手はずを龍馬が整えたことなどが挙げられます。

これらは、単なる同盟というだけでなく、互いの窮状を助け合う実質的な協力関係が築かれていたことを示しています。

また、龍馬が寺田屋で幕吏に襲撃された際には、西郷の指示で薩摩藩邸が龍馬を保護したことも、二人の信頼関係の深さを物語っています。

坂本龍馬は薩長同盟成立の翌年、1867年に京都で暗殺されてしまいます。

もし龍馬が長生きしていれば、新しい国づくりにおいて西郷隆盛と共にどのような役割を果たしたのか、歴史のifとして多くの人々が思いを馳せるところです。

短い期間ではありましたが、坂本龍馬と西郷隆盛の出会いと協力は、日本の歴史を大きく動かす上で計り知れないほど重要な意味を持っていたと言えるでしょう。

西郷隆盛は何をした人か?最期と語り継がれる魅力

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  • 西郷隆盛の「すごいところ」とは?
  • 西南戦争はなぜ起きた?そして西郷隆盛の死因
  • 西郷隆盛の最後の言葉と遺体のその後
  • 西郷隆盛を苦しめた病気と寄生虫
  • 愛犬家 西郷隆盛と犬にまつわるエピソード
  • 西郷隆盛の子孫は今も活躍している?

西郷隆盛の「すごいところ」とは?

西郷隆盛が日本の歴史において「すごい」と評される理由は数多くありますが、その本質は、類まれなリーダーシップ、時代を先読みする洞察力、そして何よりも彼自身の人間的な魅力と私利私欲のない無私の精神に集約されると言えるでしょう。

多くの人々が彼を慕い、その言葉に耳を傾け、行動を共にしたのは、これらの要素が複雑に絡み合い、西郷隆盛という人物を形作っていたからに他なりません。

まず特筆すべきは、その卓越したリーダーシップとカリスマ性です。

西郷は薩摩藩の下級武士の出身でありながら、藩主島津斉彬に見出され、やがては薩摩藩、そして日本全体を動かすほどの指導者となりました。

戊辰戦争においては新政府軍の指揮官として旧幕府軍と対峙し、困難な状況下でも的確な判断を下し、兵士たちの士気を鼓舞しました。

彼の周りには自然と人が集まり、彼のためならば命も惜しまないという人々が数多くいたと言われています。

これは、単に地位や肩書だけでは説明できない、彼自身の内から溢れ出る人間的な引力があったからでしょう。

次に、政治的な洞察力と決断力も西郷の「すごさ」を語る上で欠かせません。

幕末の混乱期にあって、彼は日本の将来を見据え、大胆かつ的確な判断を次々と下しました。

前述の通り、対立していた薩摩藩と長州藩を結びつけた薩長同盟の締結や、江戸の町を戦火から救った江戸城無血開城などは、その代表例です。

これらの決断は、いずれも大きなリスクを伴うものでしたが、西郷は大局を見失うことなく、国家にとって最善の道を選び取りました。

勝海舟は西郷の度量の大きさに感服し、「天下の大事を決する人物は彼西郷である」と評しています。

また、坂本龍馬も西郷を「大きく叩けば大きく響き、小さく叩けば小さく響く」と表現し、その器の大きさを認めていました。

そして、西郷の最も「すごいところ」と言えるかもしれないのが、その「敬天愛人」の精神に代表される人間的魅力と無私の姿勢です。

彼は常に天を敬い、人々を愛することを信条とし、身分や出自に関わらず、誰に対しても誠実に接しました。

自身の栄達や私利私欲のためではなく、国家や民衆のために尽くすという姿勢は、多くの人々の共感を呼びました。

贅沢を嫌い、質素な生活を送り続けたことも、その無私無欲ぶりを物語っています。

島津斉彬は西郷を「天性の大仁者である」と評し、その人間性を高く評価していました。

二度の島流しという過酷な経験も、彼の精神を屈服させるどころか、むしろ人間的な深みを増す糧となったのかもしれません。

これらのリーダーシップ、洞察力、人間的魅力、そして無私の精神が複合的に作用し、西郷隆盛という希代の英雄像を形成したのです。

彼は決して完璧な人間ではありませんでしたが、その欠点をも含めて多くの人々から愛され、尊敬されました。

だからこそ、彼の生き様は時代を超えて語り継がれ、今もなお私たちの心に強く訴えかけてくるのでしょう。

西南戦争はなぜ起きた?そして西郷隆盛の死因

西南戦争は、明治10年(1877年)に起こった日本国内最後の、そして最大規模の士族反乱です。

この戦争は、明治維新後の急激な社会変革に対する士族たちの不満が複雑に絡み合って発生しました。

そして、その中心人物として担ぎ上げられたのが、かつて明治政府の設立に尽力した西郷隆盛でした。

西南戦争がなぜ起きたのか、その背景と経緯、そして西郷隆盛の最期について見ていきましょう。

西南戦争の背景

明治維新によって江戸幕府が倒れ、明治新政府が樹立されると、日本は近代国家への道を急速に歩み始めました。

しかし、その過程で断行された数々の改革は、旧来の武士階級、すなわち士族にとっては厳しいものでした。

例えば、廃刀令(帯刀の禁止)や金禄公債証書条例(秩禄処分、給与の廃止)などにより、士族は身分的特権だけでなく経済的な基盤をも失い、生活に困窮する者が続出しました。

彼らは、自分たちが身を捧げて実現した維新が、結果として自分たちの存在意義を奪うものになったと感じ、新政府に対する不満を募らせていったのです。

このような状況下で、明治6年の政変(征韓論争)に敗れて政府を去った西郷隆盛は、故郷の鹿児島に帰り、私学校を設立して士族の子弟教育にあたっていました。

西郷自身に反乱の意図があったかどうかは議論が分かれるところですが、彼の周りには政府に不満を持つ士族たちが自然と集まり、私学校は彼らの精神的な支柱となっていきました。

政府側も、鹿児島県が私学校党の支配下に半ば独立状態にあると見なし、警戒を強めていました。

開戦への経緯と西郷の立場

明治10年1月、事態は急変します。

政府が鹿児島県下の火薬庫から弾薬を運び出そうとしたことに対し、私学校の生徒たちがこれを襲撃し、奪取するという事件が発生しました。

さらに、政府が派遣した密偵が西郷を「シサツ(刺殺または視察)」する目的で潜入しているという情報が広まり、士族たちの怒りは頂点に達します。

この時、西郷は大隅半島で狩猟をしていましたが、事件の報を受けて鹿児島に戻ると、興奮した私学校生徒や不平士族たちに担ぎ上げられる形で、政府にその非を問うとして挙兵を決意するに至りました。

西郷は、「おれが今度お前たちと一緒にいくのは、おれの意志で行くんじゃない」と語ったとも伝えられており、必ずしも自ら積極的に戦いを望んだわけではなかった可能性も示唆されています。

西郷隆盛の死因

西南戦争は、当初こそ薩軍の勢いはあったものの、装備や兵力で勝る政府軍の前に次第に劣勢となっていきました。

各地で激戦が繰り広げられましたが、薩軍は敗走を重ね、最終的に西郷らは鹿児島城下の城山に追い詰められます。

明治10年9月24日早朝、政府軍の総攻撃が開始されると、西郷は残った将士と共に最後の抵抗を試みました。

岩崎口へ進撃する途中、島津応吉久能邸門前で西郷は股と腹に銃弾を受け、致命傷を負います。

もはやこれまでと悟った西郷は、傍にいた側近の別府晋介に対し、「晋どん、晋どん、もう、ここらでよか」と声をかけ、介錯を命じました。

別府は涙ながらにその命に従い、西郷の首を刎ねたとされています。

享年51(満49歳)でした。

これが西郷隆盛の直接的な死因であり、西南戦争における最期の状況です。

彼の死をもって、士族による最後の組織的な武力反乱は終焉を迎えました。

西南戦争は、新しい時代の波に取り残された士族たちの悲痛な叫びであり、その中心にいた西郷隆盛の存在は、今もなお多くの議論を呼んでいます。

しかし、彼が日本の歴史に大きな足跡を残した人物であることは間違いありません。

西郷隆盛の最後の言葉と遺体のその後

西南戦争の最終局面、城山での壮絶な戦いの末に自刃した西郷隆盛。

彼の最期は多くの人々に衝撃を与えましたが、その最後の言葉や遺体がその後どのように扱われたのかは、彼の人物像や時代背景を理解する上で重要な意味を持ちます。

最期の言葉「晋どん、晋どん、もう、ここらでよか」

明治10年(1877年)9月24日、政府軍の総攻撃を受け、決死の覚悟で進撃した西郷隆盛は、股と腹に銃弾を受け、もはやこれまでと悟りました。

この時、傍らにいた信頼する部下、別府晋介に向かって「晋どん、晋どん、もう、ここらでよか」と告げ、介錯を頼んだとされています。

この言葉は、自らの死を潔く受け入れる西郷の覚悟と、部下への最後の信頼を示すものとして、非常に印象的です。

「晋どん」という親しみを込めた呼びかけに、長年の苦楽を共にした者同士の深い絆が感じられます。

そして「もう、ここらでよか」という言葉には、万策尽きたことへの諦観だけでなく、自分自身の役割はここまでだという一つの区切り、そしてある種の安堵感すら漂っているようにも解釈できるかもしれません。

別府晋介は涙ながらにその命を受け、西郷の首を刎ねました。

この最期の言葉は、西郷の生き様を象徴するものとして、後世に語り継がれています。

遺体の発見と埋葬

西郷の首は、敵に渡ることを恐れた部下によって、戦闘の混乱の中、折田正助邸の門前に急いで埋められたと言われています。

戦闘が終結し、午前9時頃に雨が降った後、政府軍による検屍が行われました。

この検屍には、政府軍の総指揮官であった山縣有朋や各旅団長らが立ち会いました。

西郷の遺体は毛布に包まれ、木櫃に入れられて、浄光明寺跡(現在の南洲神社の鳥居付近)に仮埋葬されました。

この際、墓石ではなく、県令の岩村通俊が名を記した木標が建てられたと記録されています。

また、埋められていた西郷の首も戦闘終了後に発見され、検分の後、丁重に葬られたと伝えられています。

一説には、西郷が長年患っていたフィラリア症による陰嚢の腫れが、首のない遺体を本人と特定する際の一つの決め手になったとも言われています。

名誉の回復

西南戦争で政府に反旗を翻した西郷は、挙兵直後に官位を剥奪され、死後は賊軍の将として扱われました。

しかし、西郷の人柄を深く愛し、その死を悼んでいた明治天皇の意向や、かつての同僚であった黒田清隆らの熱心な働きかけにより、風向きは徐々に変わっていきます。

そして、西郷の死から12年後の明治22年(1889年)、大日本帝国憲法発布に伴う大赦によって、西郷は賊名を解かれ、正三位の位階が追贈されました。

これにより、公式に名誉が回復されたのです。

明治天皇は西郷の死の報を聞いた際、「西郷を殺せとは言わなかった」と漏らしたとされるほど、西郷のことを高く評価していたと言われています。

現在、西郷の墓は鹿児島市の南洲墓地にあり、西南戦争で亡くなった他の多くの薩軍将兵と共に眠っています。

西郷隆盛の最期は悲劇的なものでしたが、その潔い死に様と、死後の名誉回復に至る経緯は、彼がいかに多くの人々に影響を与え、敬愛されていたかを物語っています。

そして、彼の遺志や精神は、形を変えながらも現代に受け継がれていると言えるでしょう。

西郷隆盛を苦しめた病気と寄生虫

西郷隆盛は、その堂々たる体躯や精神的な強靭さのイメージが強いですが、生涯を通じていくつかの健康問題に悩まされていたことが知られています。

特に、肥満に起因する問題や、流刑先で感染したとされる寄生虫による症状は、彼の晩年の生活や行動にも影響を与えたと考えられています。

これらの病気について具体的に見ていくことで、英雄として語られる西郷の人間的な側面をより深く理解することができるでしょう。

肥満とそれに伴う健康問題

西郷隆盛は非常な大食漢であり、特に脂身のついた豚肉やうなぎ、甘いカステラなどを好んだと伝えられています。

身長は約180cmと当時としては大柄でしたが、体重も100kgを超えていたと言われ、かなりの肥満体型でした。

特に、倒幕運動が一段落し、新政府で要職に就いてからの運動不足も肥満に拍車をかけたと考えられます。

明治6年(1873年)の征韓論争の頃には、肥満による健康悪化が深刻な問題となっており、明治天皇の指示でドイツ人医師テオドール・ホフマンによる治療を受けていた記録があります。

ホフマンは西郷を脂質異常症と診断し、治療法として食事制限、蓖麻子油(ひましゆ)を下剤として服用すること、そして犬を連れて毎日朝夕合計で約8kmの散歩をすることを指示しました。

西郷が愛犬家として知られ、狩猟を好んだのも、この治療の一環として運動を兼ねていた側面があったのかもしれません。

息子の西郷菊次郎は、「父の身體は頗る肥満していた。で酒を飲むと苦しくてたまらないと言うので、壮年の時は随分用いたでもあろうが、あとでは一滴も用いなかった」と証言しており、アルコールは嗜まなかったものの、肥満には生涯悩まされていた様子がうかがえます。

フィラリア症(象皮症)との闘い

西郷隆盛を苦しめたもう一つの大きな病気が、フィラリアという寄生虫による感染症です。

これは、蚊を媒介としてバンクロフト糸状虫という寄生虫が体内に侵入することで引き起こされる病気で、リンパ系の障害から慢性的な浮腫(むくみ)や象皮症(皮膚が象のように硬く厚くなる症状)などを発症します。

西郷は、二度目の島流しで沖永良部島に送られた際に、このフィラリアに感染したとされています。

沖永良部島は当時フィラリアの流行地の一つでした。

この感染の後遺症として、西郷は陰嚢が人の頭ほどにも大きく腫れ上がる象皮症を患ったと言われています。

この症状は生涯治ることがなく、晩年には馬に乗ることが困難になり、移動の際には駕篭を利用することが多かったと伝えられています。

西南戦争後の遺体確認の際には、この巨大な陰嚢が、首のない西郷の遺体を本人であると特定する上での重要な手がかりの一つになったという話は有名です。

当時の日本では、特に九州南部を中心にフィラリア感染症は珍しい病気ではなく、風土病として存在していました。

しかし、西郷ほどの著名な人物がこの病に苦しんでいたという事実は、当時の医療状況や生活環境を物語るものとも言えるでしょう。

これらの健康問題は、西郷の肉体的な苦痛はもちろんのこと、精神面にも少なからぬ影響を与えた可能性があります。

しかし、そのような困難を抱えながらも、日本のために尽力し続けた西郷の姿は、彼の精神力の強さを示しているとも言えます。

英雄として語られる西郷隆盛もまた、病と闘う一人の人間であったことを知ることは、彼をより身近に感じることに繋がるかもしれません。

愛犬家 西郷隆盛と犬にまつわるエピソード

西郷隆盛と言えば、明治維新の指導者としての勇猛な姿や、思慮深い政治家としての一面がよく語られますが、同時に非常に情け深く、動物を愛する人物であったことも知られています。

特に犬に対する愛情は格別で、数々の心温まるエピソードが残されており、彼の人間的な魅力をより一層引き立てています。

東京・上野公園に立つ西郷隆盛の銅像が、薩摩犬「ツン」を連れた姿であることは、彼の愛犬家ぶりを象徴していると言えるでしょう。

狩猟の伴侶としての犬

西郷が犬を飼い始めたきっかけの一つには、健康問題があったとされています。

前述の通り、彼は肥満に悩んでおり、医師から運動を勧められていました。

そこで、趣味であった狩猟を運動の一環として行うようになり、その際の伴侶として犬を飼い始めたのです。

西郷はウサギ狩りなどを好み、愛犬を連れて山野を駆け巡ることを楽しみました。

この狩猟は、単なる運動や娯楽というだけでなく、彼にとって精神的なリフレッシュの機会でもあったのかもしれません。

西南戦争の最中という緊迫した状況下でさえ、猟を行っていたという逸話も残っているほど、彼にとって犬と共に行う狩猟は生活の一部となっていたようです。

数多くの犬たちとの生活

西郷は非常に多くの犬を飼育していました。

東京に住んでいた頃には、自宅に十数頭、多い時には数十頭もの犬がいたと言われています。

家の中は犬たちで賑わい、時には荒れ放題になることもあったようですが、西郷はそれを意に介さず、犬たちとの生活を楽しんでいたようです。

鰻温泉に滞在していた際には、愛犬の世話をするための専門の従者を連れていたという話も伝わっており、犬たちをいかに大切に扱っていたかがうかがえます。

犬たちには兎の肉を与えるなど、食事にも気を配っていた様子が記録されています。

犬と共にある日常

西郷の犬好きを示すエピソードは、彼の日常の様々な場面で見受けられます。

例えば、京都の料亭「近安樓」の女将であった君龍は、木戸孝允や山縣有朋、伊藤博文といった明治の元勲たちが芸妓を集めて夜遅くまで宴会を楽しんでいたのに対し、西郷は犬を連れてやってきて、犬と一緒に鰻料理を食べるとすぐに帰ってしまった、と証言しています。

この話からは、華やかな宴席よりも、愛犬と過ごす静かな時間を好んだ西郷の朴訥とした人柄が伝わってきます。

また、犬は西郷にとって単なるペットではなく、信頼できる仲間であり、心を許せる存在であったのかもしれません。

彼の周りに常に犬がいたことは、彼の温厚で飾り気のない性格を反映しているようにも思えます。

西郷隆盛の愛犬家としての一面は、彼が持つ人間的な温かさや優しさ、そして自然を愛する心を象徴しています。

激動の時代を生きた指導者が見せたこのような素顔は、彼をより身近な存在として感じさせ、多くの人々から愛され続ける理由の一つとなっているのでしょう。

彼の傍らにいた犬たちは、間違いなく西郷にとってかけがえのない家族であり、心の支えであったに違いありません。

西郷隆盛の子孫は今も活躍している?

明治維新の巨星、西郷隆盛。

彼の壮絶な生涯は多くの人々に知られていますが、その血を受け継いだ子孫たちがその後どのような道を歩み、現代においてどのように活躍しているのかは、意外と知られていないかもしれません。

西郷隆盛には複数の妻との間に子供たちがおり、その家系は今日まで続いています。

彼の子孫たちは、先祖である西郷隆盛の遺志を胸に、様々な分野で社会に貢献しています。

西郷隆盛の家族

西郷隆盛は生涯で三人の妻を迎えました。

最初の妻である須賀とは子供がおらず離縁しています。

二度目の妻は、奄美大島に流刑となった際に出会った島妻の愛加那(あいかな)です。

愛加那との間には、長男の西郷菊次郎(さいごう きくじろう)と長女の菊草(きくそう、または菊子)が生まれました。

そして、後に正式な妻として迎えたのが岩山糸子(いとこ)です。

糸子との間には、長男の西郷寅太郎(さいごう とらたろう)、次男の午次郎(うまじろう)、三男の酉三(ゆうぞう)が生まれました。

このように、西郷隆盛には複数の子供たちがおり、それぞれが異なる環境で成長し、自らの道を歩んでいきました。

各分野で活躍した子孫たち

特に有名なのは、愛加那との子である長男の西郷菊次郎でしょう。

彼は父・隆盛の死後、外務省に入り、アメリカ留学などを経験しました。

帰国後は台湾で地方行政に携わり、その後、京都市長を3期務めるなど、政治家・行政官として大きな功績を残しました。

菊次郎は、父の教えである「敬天愛人」の精神を受け継ぎ、市民のための政治を実践したと言われています。

糸子との長男である西郷寅太郎は、父の功績により侯爵の位を授けられ、陸軍軍人としての道を歩みました。

日露戦争などにも従軍し、その家名を継ぎました。

寅太郎の子孫もまた、西郷家としてその名を受け継いでいます。

例えば、寅太郎の三男である西郷吉之助(さいごう きちのすけ)氏は、戦後、参議院議員として活躍し、法務大臣などを歴任しました。

彼は、祖父である西郷隆盛に関する講演活動なども積極的に行い、その遺徳を後世に伝える役割も担いました。

次男の午次郎は実業家として活動し、三男の酉三は残念ながら若くして亡くなっています。

長女の菊草は、西郷の部下であった市来家の人物と結婚し、その血筋を繋いでいます。

現代における子孫の活動

現代においても、西郷隆盛の子孫の方々は様々な分野で活躍されています。

西郷家の直系として、西郷隆盛の研究や顕彰活動に携わったり、講演会などで先祖の事績を語り継いだりしている方もいらっしゃいます。

また、政治、経済、文化、学術など、多岐にわたる分野で、西郷の血を受け継ぐ人々がそれぞれの能力を発揮し、社会に貢献しています。

公に名前が出る活動をされている方もいれば、静かにそれぞれの人生を歩んでいる方もいらっしゃるでしょう。

いずれにしても、西郷隆盛という偉大な先祖を持つことは、子孫の方々にとって誇りであると同時に、大きな責任も伴うことかもしれません。

西郷隆盛とは結局何をした人なのか?その足跡を辿るまとめ

西郷隆盛という人物が、幕末から明治という激動の時代に一体何をしたのか、その多岐にわたる活動と人間的な魅力を改めて整理してみましょう。 彼が日本の歴史に刻んだ足跡は、今もなお多くの人々に語り継がれています。

  • まず、日本の進むべき道筋を大きく変えた重要な出来事として、対立していた薩摩藩と長州藩を結びつける薩長同盟の締結に尽力しました。
  • 次に、新政府軍の参謀として戊辰戦争を指揮し、江戸城無血開城を実現させ、江戸の町を戦火から守り抜きました。この功績は非常に大きいと言えるでしょう。
  • そして、王政復古のクーデターを成功に導き、徳川幕府の終焉と明治新政府の樹立に中心的な役割を果たしました。
  • 新政府においては参議として、廃藩置県や学校制度の整備、徴兵制の導入など、日本の近代化に向けた数々の重要な改革を断行しました。
  • 彼の思想の根幹には「敬天愛人」という言葉があり、常に天を敬い、身分や性別に関わらず全ての人々を愛するという精神を生涯持ち続けました。
  • 私生活では贅沢を好まず、非常に質素な生活を送り、庶民の苦しみにも心を寄せる深い思いやりを持っていた人物です。
  • 写真撮影を頑なに拒否し、明治天皇からの要望さえも断ったというエピソードは、彼の確固たる信念や謙虚さを示しています。
  • 出身は薩摩藩(現在の鹿児島県)の下級武士であり、若き日に藩主島津斉彬に見出されたことが、彼の才能を開花させる大きなきっかけとなりました。
  • しかし、斉彬の死後は藩の実権を握った島津久光と意見が衝突し、奄美大島や沖永良部島へ二度も島流しにされるという不遇の時代も経験しています。
  • 幼馴染であった大久保利通とは、共に明治維新を推進した盟友でしたが、朝鮮への使節派遣を巡る征韓論で意見が対立し、袂を分かつことになりました。
  • 土佐藩の坂本龍馬とは、日本の将来を憂う志を同じくし、龍馬の仲介によって薩長同盟が実現するなど、互いの器量を認め合った協力関係にありました。
  • 明治政府の急進的な改革により困窮した士族たちの不満を背景に、西南戦争では指導者として担ぎ上げられる形となりました。
  • 西南戦争の最終局面である城山の戦いで敗れ、側近の別府晋介に「晋どん、晋どん、もう、ここらでよか」と言い残し、自刃してその生涯を閉じました。
  • 生涯を通じて肥満に悩まされたほか、流刑先の沖永良部島で感染したとされるフィラリアという寄生虫による象皮症にも苦しめられました。
  • 大変な愛犬家としても知られ、多くの犬を飼い、狩猟の際には常に犬を伴っていたなど、動物への深い愛情を示すエピソードが数多く残っています。

このように西郷隆盛は、国のあり方を根本から変革する大事業を成し遂げた一方で、人間味あふれる側面も持ち合わせていた人物でした。 彼の行動や思想は、その後の日本に大きな影響を与え、今日に至るまで多くの人々にとって魅力的な存在であり続けています。

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