「大久保利通」という名前は歴史の教科書でよく見かけるけれど、「具体的に何をした人で、日本の近代化にどんな大きな役割を果たしたの?」あるいは「西郷隆盛との関係や、非情な指導者というイメージの裏にある本当の性格はどんな人だったの?」と疑問に思う方も多いのではないでしょうか。
幕末から明治という激動の時代、大久保利通はまさに日本の針路を定める中心人物の一人でした。
この記事では、そんな大久保利通の生涯を振り返りながら、彼が成し遂げた数々の功績、その知られざるエピソードや性格、そして盟友・西郷隆盛との関係、さらには衝撃的な暗殺事件の背景に至るまで、分かりやすく掘り下げていきます。
複雑に見えるかもしれませんが、この記事を読めば、大久保利通という人物とその業績の全体像が掴めるはずです。
この記事を読むと、以下のことがわかります。
- 大久保利通が成し遂げた主要な功績と日本の近代化への貢献
- 冷静沈着な指導者のイメージの裏にある人間味あふれる性格やエピソード
- 西郷隆盛との友情と決別、そして暗殺事件に至るまでの経緯
- 彼の生涯が現代に与えている影響や、子孫、ゆかりの地について
大久保利通は何をした人か?その功績とは

- 大久保利通の功績を簡単に紹介
- 明治維新と新政府での主な功績
- 大久保利通は何藩出身?思想への影響
- 重要なエピソードに見る大久保利通
- 大久保利通はどんな人?その性格
大久保利通の功績を簡単に紹介
大久保利通は、幕末から明治初期にかけて日本の政治を動かし、近代国家としての日本の礎を築いた極めて重要な人物です。
彼の功績を一言で表すならば、「明治維新を成し遂げ、強力なリーダーシップで日本の近代化を推進した」と言えるでしょう。
西郷隆盛、木戸孝允と並んで「維新の三傑」と称されることからも、その歴史的重要性は明らかです。
大久保利通が歴史の表舞台で大きな役割を果たすのは、主に明治維新とその後の新政府においてです。
明治維新とは、江戸幕府を倒し、天皇を中心とする新しい国家体制を築いた一連の変革運動のことですが、大久保利通はこの変革の中心人物の一人として活躍しました。
薩摩藩の出身である彼は、当初は藩主島津久光のもとで公武合体運動を推進していましたが、やがて討幕へと舵を切り、薩長連合の成立に尽力します。
そして慶応3年(1867年)には、岩倉具視らと共に王政復古のクーデターを敢行し、明治新政府の樹立に大きく貢献しました。
新政府が発足すると、大久保利通はその中心メンバーとして数々の重要政策を推進していきます。
例えば、全国の土地と人民を天皇に返還させる「版籍奉還」や、藩を廃止して中央政府の管理下に置く「廃藩置県」は、彼が強力に推し進めた政策であり、これによって日本は中央集権的な近代国家としての体裁を整えることができました。
また、大蔵卿(現在の財務大臣に近い役職)や初代内務卿(現在の首相に近い強力な権限を持つ役職)を歴任し、財政の安定や内政の整備に辣腕を振るいました。
さらに、明治4年(1871年)には岩倉使節団の特命全権副使として欧米諸国を歴訪します。
この視察で西洋の進んだ技術や制度を目の当たりにした彼は、日本の近代化の必要性を一層強く認識し、帰国後は「殖産興業」や「富国強兵」といったスローガンを掲げて、国の産業育成や軍備の近代化を強力に推し進めました。
具体的には、富岡製糸場の設立などが有名です。
地租改正による税制の近代化も、彼の主導による重要な改革の一つです。
一方で、こうした急進的な改革は国内の保守的な勢力、特に特権を失った士族たちの不満を招き、各地で反乱が頻発しました。
大久保利通はこれらの士族反乱を断固として鎮圧し、新政府の安定に努めましたが、その過程でかつての盟友である西郷隆盛とも対立し、西南戦争という悲劇的な内戦を戦うことになります。
日本の近代化のためには非情な決断も辞さない、その強硬な姿勢は「有司専制」と批判されることもありましたが、彼の強力なリーダーシップなくして明治日本の急速な近代化は成し得なかったとも言われています。
このように、大久保利通は日本の歴史が大きく転換する激動の時代に、国家の進むべき方向を指し示し、その実現のために生涯を捧げた人物でした。
彼の功績は、今日の日本の基礎を形作る上で計り知れない影響を与えています。
明治維新と新政府での主な功績
大久保利通は、日本の歴史における一大転換期である明治維新とその後の新政府の形成において、中心的な役割を担い、数多くの重要な功績を残しました。
彼の活動は、旧体制の解体から新しい国家の設計、そしてその運営に至るまで広範囲に及び、その後の日本の進路を決定づけるものでした。
討幕運動と王政復古への貢献
大久保利通の功績としてまず挙げられるのは、江戸幕府を倒し、天皇を中心とする新政権を樹立したことです。
彼は当初、薩摩藩主の父である島津久光のもとで公武合体運動、つまり朝廷と幕府が協力して国難にあたるべきだという路線を推進していました。
しかし、幕府の力が衰え、外国の脅威が増す中で、既存の体制では日本を守れないと判断し、次第に討幕へとその方針を転換させます。
この過程で重要なのが、長年の敵対関係にあった長州藩との間に「薩長同盟」を成立させたことです。
大久保は西郷隆盛と共にこの同盟締結に深く関与し、討幕勢力の結集に成功しました。
そして慶応3年(1867年)12月、岩倉具視ら公家と連携し、武力による「王政復古のクーデター」を敢行。
これにより徳川幕府は終焉を迎え、明治天皇を中心とする新政府が誕生しました。
このクーデターの成功には、大久保の周到な計画と大胆な実行力が不可欠だったと言われています。
中央集権体制の確立
明治新政府が樹立された後も、日本はまだ旧来の藩が各地に存在する分権的な状態でした。
国家として統一的な政策を推進するためには、中央集権体制の確立が急務でした。
大久保利通は、この課題に対しても強力な指導力を発揮します。
まず、明治2年(1869年)には、全国の藩主に土地(版)と人民(籍)を天皇に返上させる「版籍奉還」を実現させました。
これは、諸藩主が率先して申し出る形を取りましたが、裏では大久保ら新政府首脳の周到な働きかけがありました。
しかし、版籍奉還後も旧藩主は知藩事として引き続きその地の行政を担っており、中央政府の権力はまだ盤石ではありませんでした。
そこで大久保は、明治4年(1871年)に「廃藩置県」を断行します。
これは、全国の藩を廃止して県を設置し、中央政府から県令(知事)を派遣して直接統治するという、より強力な中央集権化政策でした。
この大胆な改革は、一部の藩からの反発も予想されましたが、大久保は薩摩・長州・土佐の有力藩の武力を背景にこれを実行し、近代的な統一国家の基礎を築き上げました。
岩倉使節団と近代化政策の推進
廃藩置県を成し遂げた直後の明治4年(1871年)末から明治6年(1873年)にかけて、大久保利通は岩倉具視を全権大使とする大規模な使節団(岩倉使節団)の副使として、アメリカやヨーロッパの国々を歴訪しました。
この視察の目的は、幕末に結ばれた不平等条約の改正交渉の準備と、欧米諸国の進んだ文明や制度を調査することでした。
約1年半にわたる視察で、大久保は西洋の工業力、軍事力、社会制度などを目の当たりにし、大きな衝撃を受けます。
特にイギリスの工場群やドイツの宰相ビスマルクから直接聞いた国家統一と富国強兵策の話は、彼に強い感銘を与え、日本の近代化への決意を一層固めさせました。
帰国後、大久保は内務卿として政府の実権を握り、欧米視察で得た知見をもとに数々の近代化政策を推進します。
「殖産興業」をスローガンに、官営模範工場(例:富岡製糸場)の設立、鉄道の敷設、通信網の整備などを進め、日本の産業革命の基礎を築きました。
また、国民皆兵を目指す「徴兵令」の制定や、近代的な学校制度である「学制」の公布、全国的な税制改革である「地租改正」など、国家の仕組みを根本から変革する大事業を次々と実行に移していきました。
これらの政策は、日本の国力を高め、欧米列強と肩を並べるための「富国強兵」を実現することを目的としていました。
国内の安定化と士族反乱への対応
明治政府の急進的な改革は、旧体制下で特権を持っていた士族(武士階級)の間に大きな不満を生み出しました。
廃藩置県や徴兵令によって存在意義を失い、経済的にも困窮した士族たちは、各地で政府に対する反乱を起こします。
大久保利通は、これらの士族反乱に対しては断固たる態度で臨みました。
明治7年(1874年)の佐賀の乱では、自ら現地に赴き鎮圧を指揮し、首謀者である江藤新平らを厳しく処罰しました。
そして明治10年(1877年)には、かつての盟友であり、最大のライバルでもあった西郷隆盛が不平士族に擁されて蜂起した西南戦争が勃発します。
これは明治政府にとって最大の危機でしたが、大久保は政府軍の総指揮を執り、最新鋭の装備と組織力で反乱軍を鎮圧。
これにより、士族による大規模な反乱は終息し、明治政府の権力基盤は不動のものとなりました。
旧友との戦いは大久保にとっても苦渋の決断であったと伝えられていますが、国家の統一と安定のためには非情にならざるを得なかったのでしょう。
このように、大久保利通は、幕末の動乱から明治国家の建設に至るまで、常にその中心にあって日本の進むべき道を示し、数々の困難を乗り越えて近代日本の礎を築き上げた、類まれな指導者であったと言えます。
大久保利通は何藩出身?思想への影響
大久保利通は、薩摩藩、現在の鹿児島県にあたる地域の下級武士の家に生まれました。
この薩摩藩出身という事実は、彼の思想形成や政治行動に多大な影響を与えたと考えられます。
薩摩藩という土壌
まず、薩摩藩そのものが幕末において非常に特殊な位置にあったことを理解する必要があります。
薩摩藩は、九州南部に広大な領地を持つ雄藩であり、江戸幕府からは遠く離れていたため、比較的独立性の高い気風を持っていました。
また、琉球王国を介して海外の情報を得やすく、早くから西洋の脅威を認識し、富国強兵の必要性を感じていた藩の一つです。
藩主島津斉彬(しまづなりあきら)の時代には、反射炉や造船所を建設するなど、日本でも先駆的な近代化事業(集成館事業)が進められていました。
このような環境は、大久保利通のような若い藩士たちに、旧態依然とした幕府体制への疑問や、日本の将来に対する危機感を抱かせ、変革への志を育む土壌となったと言えるでしょう。
下級武士からの台頭と現実主義
大久保利通の家は、藩内では御小姓与(おこしょうぐみ)という下級武士の家格でした。
これは、藩の要職に就けるようなエリート階層ではなく、実務能力によって身を立てていく必要のある立場です。
若い頃には、藩のお家騒動(お由羅騒動)に父が巻き込まれて失脚し、自身も謹慎処分を受けるなど、苦しい時期も経験しています。
このような経験は、彼に忍耐力と、理想だけでは世の中は動かないという現実主義的な思考を植え付けた可能性があります。
実際に彼は、島津斉彬の死後、藩の実権を握った島津久光に接近する際、久光が好んだ囲碁の相手を務めることで信頼を得て側近に取り立てられたというエピソードがあります。
これは、目的を達成するためには現実的な手段を選び、地道な努力を積み重ねる彼の性格をよく表しています。
身分や家柄にとらわれず、実力でのし上がっていく過程で、彼は鋭い政治感覚と実行力を磨いていったのです。
島津斉彬と久光からの影響
大久保利通の思想に大きな影響を与えた人物として、薩摩藩主の島津斉彬とその弟で後に藩の実権を握る島津久光が挙げられます。
島津斉彬は、西洋の知識や技術を積極的に取り入れ、日本の近代化を目指した開明的な君主でした。
大久保は、斉彬の薫陶を受け、日本の将来を見据えた広い視野と、変革への情熱を共有したと考えられます。
斉彬の急死後、大久保は久光に仕えることになりますが、久光は兄とは異なり、当初は公武合体路線を重視していました。
大久保は久光の側近として、この公武合体政策の実現のために奔走しますが、時代の流れの中で、やがて討幕へと舵を切ることになります。
この路線転換は、藩の利益だけでなく、日本全体の将来を考えた上での決断であり、彼の政治家としての成長を示すものでした。
藩主やその時々の権力者の意向を汲みつつも、最終的には国家的な視点から物事を判断する彼の姿勢は、薩摩藩という大きな組織の中で培われたものと言えるでしょう。
郷中教育と西郷隆盛との関係
薩摩藩には「郷中(ごじゅう)教育」という独特の青少年教育システムがありました。
これは、地域の若者たちが集団で武術や学問を学び、先輩が後輩を指導するというもので、強い縦社会の絆と、質実剛健な精神を育みました。
大久保利通もこの郷中教育を受け、幼馴染であり3歳年上の西郷隆盛とは共に学び、深い友情で結ばれていました。
西郷隆盛というカリスマ的な指導者との若い頃からの交流は、大久保にとって大きな刺激となり、彼の人間形成にも影響を与えたでしょう。
後に政治的な路線で袂を分かつことになる二人ですが、若い頃に薩摩藩という共通の土壌で育まれた絆は、彼らの生涯を通じて複雑な影響を及ぼし続けたと考えられます。
藩閥と能力主義
明治新政府において、薩摩藩出身者は長州藩出身者と共に「薩長藩閥」として大きな力を持つことになります。
大久保利通もその中心人物の一人と見なされることが多いです。
しかし、彼自身は「わしの国(薩摩)のものは政治には役に立ちません、戦にはいいが」と語ったとされ、出身藩に関わらず能力の高い者を登用しようとした形跡も見られます。
これは、彼が藩という枠組みを超えて、国家全体の人材を重視していたことの表れかもしれません。
とはいえ、彼が薩摩藩という強力な藩の力を背景に政治力を発揮できたことも事実であり、その出身藩が彼のキャリアに与えた影響は無視できません。
薩摩藩で培われた現実主義、実行力、そして国家への使命感は、大久保利通が明治維新を成し遂げ、近代日本の設計者となる上で不可欠な要素だったと言えるでしょう。
重要なエピソードに見る大久保利通
大久保利通の生涯は、日本の歴史が激動した時代と重なり、数々の重要なエピソードに彩られています。
これらの出来事は、彼の政治家としての資質、決断力、そして人間性の一端を浮き彫りにしています。
若き日の苦難と忍耐:お由羅騒動
大久保利通がまだ若かった弘化3年(1846年)、薩摩藩では藩主の跡継ぎを巡るお家騒動、いわゆる「お由羅騒動」が起こりました。
この騒動に父・利世が巻き込まれ、喜界島への流罪となってしまいます。
大久保自身も連座して職を解かれ、謹慎処分を受け、一家は経済的に困窮するという苦難を経験しました。
この時、彼はまだ20歳前後でしたが、この経験が彼の忍耐力を養い、逆境に屈しない強い精神力を育んだと考えられます。
後に島津斉彬が藩主となると父は赦免され、大久保も復職しますが、若い頃の不遇な経験は、彼の現実を見据える冷静な目や、目的達成への執着心を強める一因となったのかもしれません。
国父・島津久光への接近:囲碁の逸話
島津斉彬の急死後、藩の実権は斉彬の弟である島津久光(藩主忠義の父、「国父」と称される)が握ることになります。
下級武士の出身であった大久保が、この久光に接近し、その信頼を得て側近へと取り立てられる過程は、彼のしたたかさを示すエピソードとして知られています。
久光は囲碁を大変好んでいました。
大久保は、久光の囲碁の相手を務める機会を得ると、その中で徐々に久光の信頼を勝ち取り、政治的な手腕を発揮する足がかりを掴んだと言われています。
このエピソードは、彼が単に実直なだけでなく、目的のためには戦略的に立ち回り、人間関係を巧みに利用する能力も持ち合わせていたことを示唆しています。
身分や慣習にとらわれず、実力で道を切り開こうとする彼の姿勢が垣間見えます。
欧米視察と近代化への目覚め:岩倉使節団
明治4年(1871年)から約1年半にわたる岩倉使節団の副使として欧米諸国を歴訪した経験は、大久保利通のその後の政策に決定的な影響を与えました。
彼は、アメリカやヨーロッパの進んだ工業力、軍事力、社会制度を目の当たりにし、大きな衝撃を受けました。
特に、イギリスの工場群の生産力や、ドイツ帝国の宰相ビスマルクから直接聞いた国家統一と富国強兵策の話は、彼に強い感銘を与えたとされています。
「日本も西欧に追い付けるのでは」という確信を得た彼は、帰国後、日本の近代化を強力に推し進める原動力となりました。
この視察は、大久保に世界の中の日本の立ち位置を客観的に認識させ、具体的な国家建設のビジョンを形成させる上で非常に重要な転機となったのです。
彼の有名な言葉「為政清明(政治は清く明瞭であるべき)」も、この経験を通じてより一層強い信念となったのかもしれません。
征韓論争と盟友との決別:明治六年政変
岩倉使節団が欧米を視察している間、日本国内の留守政府では、西郷隆盛らを中心に、武力を用いてでも朝鮮半島を開国させようとする「征韓論」が台頭していました。
使節団が帰国すると、この征韓論を巡って政府内で激しい対立が起こります。
大久保利通は、木戸孝允らと共に、まずは国内の整備(内治優先)が先決であるとして征韓論に強く反対しました。
この結果、征韓論を主張した西郷隆盛や板垣退助らは政府を去ることになります。
これは「明治六年の政変」と呼ばれ、大久保が政府内での主導権を確立する大きな契機となりました。
しかし、この政変は、幼馴染であり、共に討幕運動を戦い抜いた西郷隆盛との決定的な決別を意味するものでもありました。
国家の将来に対する考え方の違いが、かつての盟友を袂を分かつ道へと導いたのです。この決断は、大久保にとって非常に苦しいものであったと想像されます。
士族反乱への厳しい対応:西南戦争
明治新政府の急進的な改革は、多くの士族の不満を買い、佐賀の乱や萩の乱といった反乱が頻発しました。
大久保利通はこれらの反乱に対し、国家の統一と安定を最優先に考え、断固たる姿勢で鎮圧に臨みました。
そして明治10年(1877年)、最大の士族反乱である西南戦争が勃発します。
首謀者は、かつての盟友、西郷隆盛でした。
大久保は、政府軍の事実上の総責任者として、この戦いを指揮し、最新の軍備と組織力で西郷軍を破りました。
この戦争は、日本の近代化への道を確固たるものにしましたが、同時に多くの犠牲者を出し、大久保自身も「西郷を死に追いやった」という重い十字架を背負うことになりました。
西郷の死の報を聞いた際、大久保は号泣したと伝えられており、その胸中には複雑な思いがあったことでしょう。
国家の指導者としての非情な決断と、一人の人間としての苦悩が交錯するエピソードです。
これらのエピソードは、大久保利通が、日本の未来のために困難な決断を繰り返し、時には個人的な情を排してでも国家の進むべき道を切り開こうとした、強い意志を持った政治家であったことを示しています。
大久保利通はどんな人?その性格
大久保利通という人物を理解するためには、彼の業績だけでなく、その性格や人間性にも目を向ける必要があります。
彼は、一般的に冷静沈着で目的のためには手段を選ばない非情な策略家というイメージが強いですが、実際には様々な側面を持った複雑な人物でした。
冷静沈着な政策推進者
大久保利通の性格として最もよく指摘されるのは、その冷静さと目的達成への強い意志です。
彼は感情に流されることなく、常に客観的な状況判断に基づいて行動したと言われています。
例えば、明治新政府の運営においては、数々の困難な改革を断行しましたが、その際には周到な準備と緻密な計画をもって臨みました。
岩倉使節団として欧米を視察した際も、各国の制度や技術を熱心に学び、それを日本の近代化政策に活かそうとしました。
周囲からは「寡黙で他を圧倒する威厳を持ち、冷静な理論家」と評されることが多く、感情を表に出すことは少なかったようです。
大隈重信は、大久保を「意思の堅固と冷静で決断力に富んでいる」と評価しています。
この冷静さと合理性が、彼を明治政府の中心人物へと押し上げた大きな要因の一つでしょう。
「有司専制」と批判された権力
一方で、大久保利通の政治手法は、時に「有司専制」と批判されました。
これは、彼を中心とする一部の政府高官が強大な権力を握り、独裁的に政治を進めているという意味です。
実際に彼は、内務卿として警察や地方行政を掌握し、反対勢力を厳しく抑え込みました。
目的のためには強引ともいえる手段も辞さず、その非情なまでの決断力は、佐賀の乱の首謀者であった江藤新平への厳しい処置や、西南戦争における西郷隆盛との対決にも表れています。
このような姿勢は、多くの敵を作り、後の暗殺の一因になったとも考えられます。
しかし、見方を変えれば、未だ不安定だった明治初期の日本において、強力なリーダーシップを発揮して国家をまとめ上げ、近代化を推し進めるためには、ある程度の強権的な手法も必要だったのかもしれません。
清廉潔白な私生活
政治家としての厳しい側面とは対照的に、大久保利通の私生活は非常に清廉潔白であったと伝えられています。
彼は公私の別を厳しくわきまえ、私財を蓄えることには全く関心がありませんでした。
それどころか、国の事業で予算が不足した際には、私財を投じて補填することもあったと言われています。
その結果、彼が暗殺された後には、わずかな現金しか残っておらず、逆に多額の借金があったことが判明しました。
しかし、債権者たちは大久保の志を知っていたため、遺族に返済を求めることはなかったといいます。
このエピソードは、彼がいかに国のために尽くし、金銭に対して潔癖であったかを示しています。
意外な趣味と日常生活
大久保利通は、公務に追われる多忙な日々の中でも、いくつかの趣味を持っていました。
特に囲碁は有名で、藩主の父・島津久光に接近するきっかけになったとも言われています。
囲碁に関しては負けず嫌いで、負けると機嫌が悪くなることもあったようです。
また、ヘビースモーカーであり、濃厚な指宿煙草を愛用していました。
子供たちが毎日パイプを掃除しなければすぐに詰まってしまうほどだったという話も残っています。
家庭では子煩悩な優しい父親であったとも伝えられており、出勤前のわずかな時間に娘を抱き上げて慈しんだり、子供たちが玄関で靴を脱がせようとして転がるのを見て喜んでいたという微笑ましいエピソードもあります。
写真も好んでおり、西郷隆盛がほとんど写真を残さなかったのとは対照的に、大久保の肖像写真は数多く現存しています。
日常生活においては、当時としては珍しく洋風の生活を取り入れ、洋間に滞在し洋服を着用することもあったようです。
周囲が語る大久保利通像
大久保利通に対する評価は、彼と接した人物によって様々です。
伊藤博文は、「大久保さんの威厳は一種天稟であった」「誠に珍しい度量の広大なる方で、しかも公平無私」と高く評価しています。
また、勝海舟は「情実の間を踏み切って、ものの見事にやりのけるのは、そうさなアー大久保だろうよ」とその決断力を称賛しています。
一方で、渋沢栄一は、大久保の財政観念の欠如を批判しつつも、「器ならずとは、公のような人を言うのだろう」とその底知れない偉大さを認めています。
このように、大久保利通は、冷徹な策略家、強力な指導者、清廉な政治家、そして家庭人としての顔も持つ、多面的で奥深い人物であったと言えるでしょう。
その毀誉褒貶は、彼が日本の歴史の転換期にいかに大きな役割を果たしたかの証左でもあるのです。
大久保利通は何をした人か?その最期と関連情報

- 盟友 西郷隆盛との決別
- 暗殺「紀尾井坂の変」
- 大久保利通 最後の言葉と意味
- 大久保利通の子孫の現在の活動
- 大久保利通の生誕地とゆかりの地
盟友 西郷隆盛との決別
大久保利通と西郷隆盛。
この二人の名前は、明治維新を語る上で決して切り離すことのできない、いわば車の両輪のような存在でした。
同じ薩摩藩に生まれ、幼い頃からの友人であり、共に日本の未来を憂い、江戸幕府を倒すために力を合わせた盟友でした。
しかし、新しい国家が誕生した後、彼らは目指すべき国のあり方や進むべき道筋を巡って袂を分かち、最終的には西南戦争という悲劇的な内戦で敵味方として対峙することになります。
若き日の友情と共闘
大久保利通と西郷隆盛は、共に薩摩藩の下級武士の子として育ちました。
西郷が大久保より3歳年長でしたが、郷中教育という薩摩藩独特の青少年教育システムの中で共に学び、早くから互いの才能を認め合っていたと言われています。
藩主島津斉彬に見出された西郷に続き、大久保もまた斉彬に登用され、やがて藩政の中枢で活躍するようになります。
幕末の動乱期には、二人は薩摩藩の若手リーダーとして尊王攘夷運動に関わり、やがて藩論を討幕へと導いていきました。
特に、犬猿の仲とされた長州藩との間に薩長同盟を締結する際には、坂本龍馬らの仲介もあったとはいえ、両藩の指導者として大久保と西郷が中心的な役割を果たしたことは間違いありません。
王政復古のクーデター、そして戊辰戦争においても、二人は新政府軍の指導者として旧幕府勢力と戦い、明治維新を成し遂げる原動力となったのです。
この時期までの二人は、まさに一心同体とも言える固い絆で結ばれていました。
新国家建設における路線の違い
しかし、明治新政府が樹立され、新しい国づくりが始まると、大久保利通と西郷隆盛の間には、徐々に考え方の違いが表面化し始めます。
大久保は、岩倉使節団の一員として欧米諸国を視察した経験から、日本の近代化を急ぎ、中央集権的な国家体制を確立し、殖産興業や富国強兵を強力に推し進めるべきだと考えました。
そのためには、旧来の身分制度や特権を解体し、効率的な官僚機構を整備する必要があるとの立場でした。
一方、西郷隆盛は、武士階級の精神や伝統を重んじ、急激な西欧化には慎重な姿勢を見せていました。
また、明治維新によって多くの特権を失い、生活に困窮する士族たちの苦境に深く同情しており、彼らの不満を解消するための政策を求めていました。
この根本的な国家観や社会観の違いが、後の対立の大きな伏線となります。
征韓論争と決裂
両者の対立が決定的なものとなったのは、明治6年(1873年)の「征韓論争」でした。
大久保が岩倉使節団として欧米視察に赴いている間、国内の留守政府を預かっていた西郷は、鎖国政策を続ける朝鮮に対し、武力を用いてでも開国させ国交を結ぶべきだとする征韓論を主張します。
これは、朝鮮との外交問題解決という側面だけでなく、国内の不平士族の不満を海外に向けることで、国内の安定を図ろうという意図もあったと言われています。
しかし、欧米から帰国した大久保は、まずは内政の整備と国力の充実が最優先であるとして、征韓論に真っ向から反対。
政府内での激しい議論の末、大久保の意見が通り、西郷の朝鮮派遣は中止され、征韓論は退けられました。
この結果に不満を抱いた西郷は、板垣退助らと共に政府を辞職し、鹿児島へと帰郷します。
これが「明治六年の政変」であり、これによって大久保と西郷の政治的な道は完全に分かれることになりました。
西南戦争 – 悲劇的な最終対決
鹿児島に帰った西郷は、私学校を設立し、青少年の教育にあたっていましたが、政府の急進的な改革に不満を持つ士族たちの精神的な支柱となっていきます。
そして明治10年(1877年)、ついに不平士族たちに擁される形で西郷は蜂起し、西南戦争が勃発しました。
これは、明治政府にとって最大の国内危機であり、大久保利通は政府の指導者として、この反乱の鎮圧にあたらなければなりませんでした。
かつての盟友であり、敬愛する先輩でもあった西郷と、国家の命運をかけて戦うことは、大久保にとって計り知れない苦悩であったことでしょう。
しかし、彼は国家の統一と近代化のためには、この反乱を鎮圧するしかないと非情な決断を下します。
政府軍は、最新の武器と組織力で西郷軍を追い詰め、約半年にわたる激戦の末、西郷は故郷鹿児島の城山で自刃して果てました。
西郷の死の報を聞いた大久保は、人目をはばからず号泣したと伝えられています。
その涙には、個人的な悲しみだけでなく、一つの時代の終わりと、新しい時代を築くための犠牲の重さが凝縮されていたのかもしれません。
大久保と西郷の決別は、単なる個人的な対立ではなく、明治日本の進むべき道を巡る、二つの異なる理想の衝突であり、その後の日本の歴史に大きな影響を与え続けることになりました。
暗殺「紀尾井坂の変」
明治日本の近代化を強力に推し進めた大久保利通ですが、その生涯は突如として終焉を迎えます。
明治11年(1878年)5月14日、東京の紀尾井坂(きおいざか)付近、清水谷(しみずだに)と呼ばれる場所で、彼は不平士族らによって暗殺されました。
この事件は「紀尾井坂の変」あるいは「紀尾井町事件」として知られ、明治政府に大きな衝撃を与えました。
事件発生の経緯
事件当日、大久保利通は朝早く、福島県令であった山吉盛典と日本の将来について語り合った後、赤坂の自邸から皇居へ向かうため馬車に乗っていました。
午前8時頃、馬車が現在の東京都千代田区紀尾井町にある清水谷に差し掛かった際、6人の男たちが馬車の行く手を遮り、襲撃しました。
犯人たちはまず馬車の馬丁を斬りつけ、馬を驚かせて馬車を止めさせると、大久保利通を引きずり出し、刀で惨殺したのです。
大久保は当時満47歳、まさに日本の指導者としてその手腕を振るっていた最中でした。
事件現場は、当時の政府高官の邸宅が多く集まる一角であり、白昼堂々の凶行は世間に大きな衝撃を与えました。
襲撃時、大久保は亡き西郷隆盛から送られた手紙を読んでいたとも伝えられています。
実行犯とその動機
大久保利通を暗殺した実行犯は、石川県士族の島田一郎を中心とする6名の不平士族でした。
彼らは事件後、その場で自首し、大久保暗殺の理由を記した「斬奸状(ざんかんじょう)」を提出しました。
この斬奸状には、彼らが大久保を「奸臣(かんしん)」、つまり邪悪な家臣とみなし、なぜ暗殺に至ったのか、その理由が五箇条にわたって列挙されていました。
主な内容としては、
1.公議を抑圧し、民権を排斥する「有司専制」を行っていること。
2.法令の朝令暮改が多く、民衆を混乱させていること。
3.不必要な土木事業や建築を行い、国費を無駄遣いしていること。
4.国威を失墜させ、外国との間に不平等な関係を続けていること。
5.民衆の困窮を顧みず、私利私欲を図っていること。
などが挙げられていました。
これらは、当時の不平士族たちが抱いていた明治政府、特にその中心人物であった大久保利通に対する強い不満や批判を反映したものでした。
特に西南戦争後、士族の不満は頂点に達しており、その怒りの矛先が大久保に向けられた形です。
実行犯の一人である島田一郎は、取り調べの際に「甲東(大久保のこと)この急場に臨み、命を助けよと言わずして、しばらく命を貸せという。その大胆、実に驚くべし。我れ大人物を殺せしを悔ゆ」と供述したとも伝えられています。
暗殺に至った時代背景
大久保利通の暗殺は、単なる個人的な怨恨によるものではなく、当時の日本の社会情勢が深く関わっていました。
明治維新によって江戸幕府が倒れ、新しい時代が到来しましたが、その変革は多くの人々にとって急激なものであり、特に武士階級(士族)は大きな打撃を受けました。
廃藩置県による俸禄の廃止、徴兵令による武士の軍事的特権の喪失、帯刀禁止令など、彼らのプライドや生活基盤を揺るがす政策が次々と打ち出されました。
大久保利通は、これらの近代化政策を強力に推進した張本人であり、不平士族たちの不満の象徴と見なされるようになっていました。
また、大久保を中心とする政府の運営は「有司専制」と批判され、彼の強権的な政治手法に対する反発も高まっていました。
西南戦争で不平士族の最大規模の反乱が鎮圧された後も、彼らの不満の火種はくすぶり続けており、それが大久保暗殺という形で噴出したと言えます。
事件が明治政府に与えた衝撃
日本の近代化を牽引してきた最高指導者の一人である大久保利通の突然の死は、明治政府にとって計り知れない損失でした。
彼の強力なリーダーシップによって進められてきた諸政策の行方や、政府内の権力バランスにも大きな影響を与えることが懸念されました。
大久保の死後、伊藤博文や大隈重信らが政府の中心となっていきますが、彼の不在は明治政府の政策運営に少なからぬ変化をもたらしたと考えられます。
この事件は、武力による抵抗がもはや有効でないことを悟った不平士族による、最後のテロ行為とも言えるものであり、これ以降、大規模な士族反乱は起こらなくなります。
しかし、政府要人に対する暗殺という手段が用いられたことは、その後の日本の政治史においても暗い影を落とすことになりました。
大久保利通の墓所は東京都港区の青山霊園にあり、暗殺現場に近い清水谷公園には、彼の功績を偲ぶ「大久保公哀悼碑」が建てられています。
この事件は、日本の近代化が多くの犠牲と葛藤の上に成り立っていたことを象徴する出来事として、今日に伝えられています。
大久保利通の最後の言葉と意味
大久保利通が暗殺された際、彼が具体的にどのような「最後の言葉」を残したのかについては、残念ながら明確で詳細な記録は多くありません。
突然の襲撃という混乱した状況下であったため、正確な言葉を記録することが難しかったと考えられます。
しかし、彼の最期にまつわるいくつかの伝聞や、暗殺当日の朝の言動、そして彼が生涯を通じて抱いていた信念から、その遺志や想いを推し量ることは可能です。
襲撃時の混乱と記録の少なさ
明治11年(1878年)5月14日の朝、馬車で皇居へ向かう途中、紀尾井坂付近の清水谷で大久保利通は6人の不平士族に襲撃されました。
襲撃は極めて短時間のうちに行われ、彼は無残にも斬殺されてしまいます。
このような状況では、彼が何かまとまった言葉を残す時間的余裕はほとんどなかったでしょう。
実行犯の一人である島田一郎の供述として、「甲東(大久保のこと)この急場に臨み、命を助けよと言わずして、しばらく命を貸せという。その大胆、実に驚くべし」という言葉が伝えられています。
これが事実であれば、絶体絶命の状況にあっても命乞いをせず、むしろ時間的な猶予を求める冷静さと胆力があったことを示唆していますが、あくまで犯人の供述であり、大久保自身の正確な発言として確定されているわけではありません。
多くの歴史的記述では、彼が抵抗らしい抵抗もできずに殺害されたとされています。
暗殺当日の朝に語った未来構想
大久保利通が暗殺されるまさにその日の朝、福島県令であった山吉盛典が赤坂の彼の私邸を訪れ、面会しています。
この時、大久保は日本の将来について熱心に語ったと伝えられています。
その内容は、「ようやく戦乱も収まって平和になった。よって維新の精神を貫徹することにするが、それには30年の時期が要る。それを仮に三分割すると、明治元年から10年までの第一期は戦乱が多く創業の時期であった。明治11年から20年までの第二期は内治を整え、民産を興す即ち建設の時期で、私はこの時まで内務の職に尽くしたい。明治21年から30年までの第三期は後進の賢者に譲り、発展を待つ時期だ」1というものでした。
この言葉は、彼が日本の近代化に対して長期的なビジョンを持ち、その実現に向けて強い決意を抱いていたことを明確に示しています。
特に、これから始まる「建設の時期」に内務卿として尽力したいと語っていた矢先の凶刃であり、この朝の言葉は、図らずも彼の「遺言」のような意味合いを持つことになりました。
彼が目指した日本の未来像、そしてその実現半ばで断たれた無念さが伝わってきます。
懐中の手紙が示すもの
大久保利通が暗殺された際、彼の懐中には、亡き西郷隆盛から生前に送られた手紙があったとされています。
この手紙が具体的にどのような内容であったのかは諸説ありますが、かつての盟友であり、最後は敵として戦った西郷の手紙を最期まで所持していたという事実は、多くの示唆を含んでいます。
それは、西郷への個人的な情愛の念が断ち切れずにいたことの表れかもしれませんし、あるいは西郷の理想や行動を反芻し、国家の将来を深く憂いていたことの証左かもしれません。
この手紙の存在は、大久保の複雑な内面や、彼が背負っていた歴史の重みを象徴しているようにも感じられます。
言葉として発せられたものではありませんが、この手紙自体が、彼の心の中にあった何かを静かに物語っていると言えるでしょう。
生涯を貫いた信念と言葉
大久保利通が明確な「最後の言葉」を残さなかったとしても、彼の生涯そのものが、日本を近代国家として自立させたいという強いメッセージを発していました。
彼の推し進めた廃藩置県、地租改正、殖産興業といった数々の政策は、まさにその信念の具現化です。
また、彼の座右の銘として知られる「為政清明(いせいせいめい)」、つまり「政治は清く明瞭でなければならない」という言葉や、「堅忍不抜(けんにんふばつ)」、つまり「意志が固く、何事にも耐え忍んで心を動かさない」という言葉は、彼の政治家としての基本姿勢であり、生涯を通じて持ち続けた信念でした。
これらの言葉は、彼が直接口にした「最後の言葉」以上に、彼の本質と遺志を雄弁に物語っていると言えるのではないでしょうか。
大久保利通は、その死によって多くの未完の事業を残しましたが、彼が示した国家建設の方向性は、その後の日本に大きな影響を与え続けました。
彼の「最後の言葉」は、特定のフレーズとしてではなく、彼の生き様そのものの中に刻まれていると考えることができるでしょう。
大久保利通の子孫の現在の活動
大久保利通は、日本の近代化に多大な貢献をした人物ですが、その血筋は現代にも受け継がれ、子孫の方々は政界、財界、学術界など、様々な分野で活躍されています。
彼の遺した影響は、直接的な政策だけでなく、その家系を通じても現代社会に及んでいると言えるでしょう。
直系子孫の活躍と爵位
大久保利通には、正妻の満寿子との間に四男一女、そして妾のおゆうとの間に四男と、合わせて八男一女の子供がいました。
彼の死後、明治天皇の特旨により、その功績を称えて大久保家は華族に列せられ、長男の大久保利和(としかず)が侯爵の爵位を授けられました。
これは、勲功のみによって華族令公布以前に華族となった数少ない例の一つです。
次男の牧野伸顕(まきののぶあき)は、母方の親戚である牧野家に養子に入り、後に伯爵となります。
彼は内大臣や外務大臣などを歴任し、戦前の日本政治において非常に重要な役割を果たしました。
三男の大久保利武(としたけ)も兄の死後に侯爵家を継いでいます。
このように、直後の世代から政治の中枢で活躍する人物を輩出しています。
多方面で活躍する子孫たち
大久保利通の子孫は、政治の世界だけでなく、幅広い分野でその才能を発揮しています。
学術分野では、大久保利通の孫にあたる大久保利謙(としあき)氏が著名です。
彼は日本近代史の研究者として大きな功績を残し、国立国会図書館の憲政資料室の設立にも尽力しました。
歴史学の分野で、祖父の時代を含む近代日本の成り立ちを研究し、後世に伝えたことは意義深いと言えるでしょう。
同じく孫の世代には、大久保利春氏がおり、彼は大手総合商社である丸紅の専務を務めましたが、1976年のロッキード事件に際して贈賄側の一人として逮捕・起訴され、有罪判決を受けたという側面もあります。
曾孫以降の世代に目を向けると、さらにその活躍の場は広がります。
牧野伸顕の娘・雪子は吉田茂(後の内閣総理大臣)と結婚しており、この系譜から多くの著名人が生まれています。
例えば、作家の吉田健一氏は大久保利通の曾孫(吉田茂の長男)にあたります。
そして、吉田茂の孫であり、大久保利通から見ると玄孫(やしゃご)にあたるのが、第92代内閣総理大臣を務めた麻生太郎氏です。
麻生氏の妹である信子様は、三笠宮家の寛仁親王と結婚され、寬仁親王妃信子となられました。
また、現職の国会議員の中にも、大久保利通の血を引く人物がいます。
参議院議員の武見敬三氏や、衆議院議員の堀内詔子氏もその一人です。
医療分野では、大久保利晃氏が放射線影響研究所の理事長や産業医科大学の学長を歴任するなど、専門分野での貢献が見られます。
関係 | 名前 | 主な活動・役職など | 備考 |
本人 | 大久保利通 | 初代内務卿、維新の三傑 | |
長男 | 大久保利和 | 侯爵 | |
次男 | 牧野伸顕 | 内大臣、外務大臣、伯爵 | 吉田茂の岳父 |
孫(次男系) | 吉田雪子 | 吉田茂の妻 | 牧野伸顕の娘 |
孫(直系) | 大久保利謙 | 日本近代史家 | |
曾孫(次男系) | 吉田健一 | 作家 | 吉田茂の長男 |
玄孫(次男系) | 麻生太郎 | 第92代内閣総理大臣 | 吉田茂の孫 |
玄孫(次男系) | 寬仁親王妃信子 | 麻生太郎の妹 | |
玄孫(直系) | 大久保利晃 | 放射線影響研究所理事長、元産業医科大学学長 | |
来孫(次男系) | 堀内詔子 | 衆議院議員 | 麻生太郎の姪(岸信夫の娘、安倍晋三の姪) |
このように、大久保利通の家系は、直接的な政治活動だけでなく、文化、学術、そして芸能といった多岐にわたる分野で現代社会と繋がりを持っていることがわかります。
大久保利通の生誕地とゆかりの地
大久保利通の生涯と業績をより深く理解するためには、彼が生まれ育った場所や、歴史的な活動の舞台となったゆかりの地を訪ねてみるのも良いでしょう。
これらの場所は、彼が生きた時代を肌で感じ、その思想や行動の背景に思いを馳せる貴重な機会を与えてくれます。
誕生の地・鹿児島
大久保利通は、文政13年(1830年)8月10日、薩摩国鹿児島城下高麗町(こうらいちょう)(現在の鹿児島県鹿児島市高麗町)で、薩摩藩士・大久保利世の長男として生まれました。
幼い頃には同じく鹿児島市内の加治屋町(かじやまち)に移り住んでおり、この加治屋町は西郷隆盛や東郷平八郎など、明治維新やその後の日本を担った多くの偉人を輩出した地としても知られています。
現在の鹿児島市内には、大久保利通の生い立ちや功績を伝える史跡が点在しています。
例えば、鹿児島市西千石町には、彼の没後100年を記念して昭和54年(1979年)に建てられた勇壮な「大久保利通銅像」があります。
この銅像は彫刻家の中村晋也氏によって制作され、足元には暗殺された際に共に亡くなった馬車夫と馬の像も彫られています。
かつては「西郷どんの敵」というイメージも一部であった地元鹿児島でも、近年ではその功績が再評価され、銅像建立もその流れの一つと言えるでしょう。
また、甲突川(こうつきがわ)沿いには「維新ふるさとの道」が整備され、大久保利通誕生地に近い場所には彼の銅像や関連展示施設があり、幕末から明治にかけての鹿児島の様子を学ぶことができます。
幕末の京都と大久保
大久保利通が政治家として本格的に活動を開始するのは、幕末の京都においてです。
国父・島津久光の側近として京都に赴き、公武合体運動を推進しました。
その後、討幕へと舵を切ってからも、岩倉具視ら公家と連携し、王政復古のクーデターを画策するなど、京都は彼の政治活動の重要な舞台となりました。
当時の京都には薩摩藩の藩邸があり、そこが活動の拠点の一つだったと考えられます。
現在の京都市内には、当時の面影を残す場所は少なくなっていますが、幕末の志士たちが駆け抜けた時代の雰囲気を想像することはできるでしょう。
明治政府の中心・東京での足跡
明治新政府が樹立されると、大久保利通は東京(江戸から改称)を拠点に活動します。
政府の中枢で活躍した彼にとって、東京はまさにその手腕を振るった場所でした。
彼が初代内務卿を務めた内務省は、現在の霞が関周辺にありました。
また、明治8年(1875年)からは1年をかけて、麹町三年町(現在の千代田区永田町・霞が関周辺)に白い木造洋館の私邸を建設しています。
この邸宅は、当時は個人の家としては珍しい洋館でしたが、後にベルギー公使館として使用されました。
そして、彼の最期の地となったのが、紀尾井町の清水谷です。
暗殺現場に近い清水谷公園(東京都千代田区)には、彼の死を悼んで「大久保公哀悼碑」が建てられています。
この石碑は高さ6.27メートルにも及ぶ大きなもので、彼の功績の大きさを物語っているようです。
また、大久保利通の墓所は、東京都港区にある青山霊園にあり、今も多くの人が訪れています。
近代化政策ゆかりの地
大久保利通が推進した近代化政策に関連する場所も、彼のゆかりの地として重要です。
例えば、群馬県富岡市にある「富岡製糸場」は、彼の殖産興業政策の象徴的な存在であり、日本の製糸業の発展に大きく貢献しました。
この富岡製糸場とその関連遺産は、現在、世界文化遺産にも登録されています。
また、福島県郡山市では、大久保が内務卿時代に推進した「安積疏水(あさかそすい)」という大規模な灌漑事業があります。
この事業によって、不毛の地であった安積原野が豊かな農地に生まれ変わりました。
地元の人々は大久保の功績を称え、彼を水神として祀る「大久保神社」を建立し、毎年9月1日には「大久保様の水祭り」が執り行われています。
これらの場所は、大久保の政策が具体的にどのような形で地域社会の発展に貢献したかを示しています。
欧米視察の軌跡
明治4年からの岩倉使節団副使としての欧米歴訪も、大久保利通の思想形成に大きな影響を与えました。
アメリカ合衆国、イギリス、フランス、ドイツ、ロシアなど、当時の主要国を巡り、それぞれの国の政治、経済、文化、軍事などを目の当たりにしました。
これらの国々で彼が見聞したことは、帰国後の日本の近代化政策の指針となったのです。
これらの国々もまた、間接的ではありますが、大久保利通のゆかりの地と言えるかもしれません。
これらの地を訪れたり、その歴史を学ぶことは、大久保利通という人物、そして彼が生きた時代をより深く理解する一助となるでしょう。
大久保利通は何をした人だったのか?その生涯と功績のまとめ
ここまで、明治維新の巨星、大久保利通の多岐にわたる功績や人物像、そしてその最期に至るまでを詳しく見てきました。
彼は日本の歴史が大きく動いた時代に、まさに中心となって国を導いた人物でした。
ここで改めて、大久保利通が一体「何をした人」であったのか、その重要なポイントをまとめてみましょう。
- 大久保利通は、幕末から明治初期にかけて活躍した薩摩藩出身の政治家で、西郷隆盛、木戸孝允と並び「維新の三傑」と称される重要人物です。
- 当初は藩主島津久光のもとで公武合体運動に関わりましたが、やがて日本の将来を見据え、討幕へと方針を転換しました。
- 長年の敵対関係にあった長州藩との間に「薩長同盟」を成立させる上で、西郷隆盛と共に中心的な役割を果たしました。
- 慶応3年(1867年)、岩倉具視らと連携し、武力による「王政復古のクーデター」を敢行し、明治新政府樹立の道を開きました。
- 新政府では、国家の統一を目指し「版籍奉還」や「廃藩置県」といった中央集権体制を確立するための大改革を強力に推進しました。
- 初代内務卿として政府の実権を握り、「殖産興業」や「富国強兵」をスローガンに掲げ、日本の近代化を精力的に進めました。具体的には富岡製糸場の設立などが挙げられます。
- 岩倉使節団の副使として欧米諸国を約1年半にわたり視察し、その経験と知見を帰国後の政策に大いに反映させました。
- 冷静沈着かつ合理的な思考の持ち主で、目的達成のためには非情とも思える決断も下す強い意志を持っていました。
- その一方で、金銭には極めて潔白で、私財を投じて国の事業を助けたこともあり、家庭では子煩悩な一面もあったと伝えられています。
- 国家運営の方針を巡っては、かつての盟友である西郷隆盛と対立。「征韓論争」では内治優先を主張し、結果として西郷は政府を去りました。
- 明治10年(1877年)に勃発した西南戦争では、政府軍の指導者として、西郷隆盛率いる士族の反乱を鎮圧し、国家の分裂を防ぎました。
- 日本の将来について、「創業期」「建設期」「発展期」という30年にわたる長期的な国家構想を抱いていました。
- 明治11年(1878年)5月14日、東京の紀尾井坂付近(清水谷)で不平士族らによって暗殺され、47年の生涯を閉じました。
- 彼の死後も、その子孫は政界、学術界、文化・芸能界など多方面で活躍し、現代に至るまでその系譜は続いています。
- 鹿児島や東京をはじめ、彼が手掛けた事業に関連する富岡製糸場や安積疏水(福島県)など、日本各地にその足跡を辿ることができるゆかりの地が残されています。
このように大久保利通は、激動の時代の中で日本の近代化という大きな目標に向かって邁進し、その礎を築き上げた人物でした。
彼の強力なリーダーシップと先見性は、現代の私たちにとっても学ぶべき点が多いのではないでしょうか。
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