この記事では、江戸時代中期に老中にまで上り詰めた田沼意次について、誰にでもわかりやすい形でご紹介します。
「田沼意次は何をした人なの?」「賄賂政治で悪名が高いって本当?」など、歴史に詳しくない方から、受験勉強に励んでいる方まで役立つ内容になっています。
田沼意次について興味がある方、ぜひ本記事をご覧ください!
この記事は
- 田沼意次って何をした人?どんな人?
- 田沼意次の生涯やエピソード、ゆかりの地を知りたい
- 江戸時代の学習や受験勉強に活かしたい
こんな方におすすめです。ではさっそく本文をご覧ください!




田沼意次のプロフィール
田沼意次は、江戸幕府の財政改革を重商主義の観点から進め、大胆な経済政策を打ち出した人物です。
株仲間の公認や蝦夷地の開発計画など、従来の農本主義から脱却を図りました。
ただし、賄賂や汚職などの弊害も指摘され、失脚後は「悪人」のレッテルを貼られてしまいます。
しかし近年は、先進的な構造改革を試みた点を評価する声も高まっています。


項目 | 詳細 |
---|---|
名前 | 田沼 意次(たぬま おきつぐ) |
出身地 | 江戸(紀州藩士の家系) |
生年月日 | 1719年(享保4年) |
死亡年月日 | 1788年(天明8年) |
享年 | 70歳 |
活躍した時代 | 江戸時代中期(宝暦・明和・安永・天明期) |
家族 | 嫡男:田沼意知(たぬま おきとも)、孫:田沼意明(たぬま おきあき)など |
主要な業績 | 老中として株仲間の公認や蝦夷地開発計画、印旛沼干拓などの商業重視政策を推進 |
関連するエピソード | 嫡男が江戸城内で暗殺され、政権運営が崩壊 |
その他の興味深い事実 | 晩年には領地で年貢を抑え、民衆の暮らしに配慮する姿勢を見せたと伝えられる |
田沼意次のかんたん年表
田沼意次の生涯をかんたんな年表にまとめました。
年(西暦) | 出来事 |
---|---|
1719年(享保4年) | 江戸にて紀州藩士の子として生まれる |
1758年(宝暦8年) | 遠江国相良藩(1万石)の大名に取り立てられる |
1767年(明和4年) | 将軍徳川家治の側用人に就任 |
1772年(安永元年) | 幕府の最高職である老中に昇進。田沼時代と呼ばれる政策を展開 |
1784年(天明4年) | 嫡男・田沼意知が江戸城内で暗殺される |
1786年(天明6年) | 将軍家治の死去に伴い失脚 |
1788年(天明8年) | 死去(享年70歳) |






田沼意次はどんな人?生涯をざっくり紹介
それでは、田沼意次の生涯を簡潔に紹介します。
田沼意次は、どのような人物だったのでしょうか。
紀州藩士の家系に生まれる
田沼意次は1719年(享保4年)に江戸で誕生しましたが、その家系は紀州徳川家に仕える藩士の流れをくむとされています。
幼少期の意次は決して大身の武家の子息ではなく、いわゆる中級武士の立場からスタートしたのです。
一方、若い頃から才気煥発な面があったのか、15歳という若さで将軍徳川家重の小姓に取り立てられています。
これは当時としてもかなり異例の抜擢だったようです。
こうした早い時期に幕府中枢へ近づいた背景には、紀州徳川家の出自や意次自身の人柄・行動力が大きく影響していたのではないでしょうか。
家重はあまり体が丈夫ではなく、公務の多くを側近に依存していたともいわれます。
その結果、田沼は年若いながらも将軍の耳に直接意見を伝えたり、近侍として信頼を得たりしていました。
当時の武士社会は格式が厳格でしたが、紀州家出身という立場や家重との相性の良さが幸いし、官僚機構の階段を速やかに上っていきます。
15歳で小姓となる状況はまさに運命が動き始めた瞬間であり、のちの「田沼時代」につながる大きな起点といえるでしょう。
徳川家重・家治に仕え、老中に昇進する
田沼意次が本格的に頭角を現すのは、1758年(宝暦8年)に1万石の大名として取り立てられた頃からです。
僅か1万石の小藩ながら「城主」となったことで、武家社会における地位は一気に上がりました。
さらに1767年(明和4年)には将軍徳川家治の側用人へ抜擢されます。
側用人は将軍の私的な秘書兼相談役のような立場で、政治の重要情報に触れることができる要職でした。
田沼は将軍家重・家治の両名に仕えつつ、政治の実権を徐々に握り始め、ついに1772年(安永元年)には幕府最高職である老中に昇進します。
老中は幕政の方針を決定する実質的なトップで、田沼はここから約30年近く(1758~1786年頃)にわたり幕政を主導する立場を確立するのです。
出世があまりにも急であったため、当時の保守的な幕臣からは反発も強かったといいます。
しかし、持ち前の行動力や商業を活かした財政感覚が評価され、さらには将軍家治からの信頼も厚かったことで、一度権力を握ると一気に幕政の舵取りを任されるようになりました。
こうして幕臣としては極めて異例の大抜擢劇を実現し、のちに「田沼時代」と呼ばれる独自の政策を展開していくのです。
商業重視の政策(田沼時代)
老中となった田沼意次が試みたのは、幕府の財政再建を目的とした重商主義政策でした。
従来の農本主義的な価値観から一歩踏み出し、商人の活力や流通機能を利用しようとした点が特徴的です。
たとえば、同業者同士が結成する株仲間を積極的に公認・奨励したほか、蝦夷地(北海道)の開発計画や印旛沼・手賀沼の干拓といった新田開発も推し進めました。
こうした改革は、田沼自身が商人から献金を受けることを公然と認めたわけではありませんが、結果として幕府役人への賄賂・汚職が広まる下地を生んだと批判されることになります。
とはいえ、田沼の意図としては「商業による富の創出」によって幕府財政を立て直し、さらには国力を底上げしようとしたものでした。
実際、一時的には景気が良くなり、町人文化が花開いたとも伝えられています。
重商主義政策自体は当時としては非常に革新的で、「元禄期のような貨幣改鋳に依存しない財政運営を図った」という点で注目されるべき改革と言えます。
庶民が浮世絵や歌舞伎などで娯楽を楽しめる経済環境が整ったことも事実であり、田沼の政策がまったくの失敗だったとは断定できません。
むしろ先駆的なアイデアが詰まっており、後世の研究者からは「早すぎた改革者」と高く評価されつつあります。
天災と賄賂問題などで批判を浴びる
しかし、田沼の政策がすべて順調に進んだわけではありません。
天明年間(1781~1789年頃)には浅間山の大噴火や凶作が相次いで起こり、深刻な飢饉(天明の大飢饉)に襲われます。
その結果、米価の高騰と深刻な食糧難で民衆の不満が噴出し、その矛先が田沼政治に向けられる事態となりました。
人々は「なぜこの苦しみを放置するのか」と政府を激しく糾弾し、江戸の町では批判の声が高まりました。
加えて、商業を優遇する改革は官僚や商人の癒着を助長した面が否定できません。
実際に幕府役人の中には私利私欲のために町人から金銭を受け取り、建前ばかりの開発計画を立案しては失敗に終わる事例が目立ったと伝えられます。
こうした腐敗や汚職への嫌悪感が積み重なり、田沼政権に対する風当たりは急速に強まりました。
さらに、当時の政治勢力には農本主義的な価値観を支持する保守派が多く、田沼の「商業重視策」は受け入れがたいものでした。
彼らは庶民の不満を巧みに利用し、田沼を「賄賂政治の元凶」として世論を煽ります。
結果として田沼意次の名声は地に落ち、今でも「田沼=悪人」と語られる原点がここにあったと言えるかもしれません。
嫡男が暗殺され失脚、晩年
田沼政権が揺らぎ始めた決定的な事件が、1784年(天明4年)に起きた嫡男・田沼意知(おきとも)の暗殺です。
意知は若年寄を務めており、将来を嘱望されていた人物でしたが、江戸城中で佐野政言に突然襲われ命を落とします。
動機には諸説ありますが、この衝撃的な事件が田沼家の権勢を大きく揺るがしたことは間違いありません。
さらに1786年(天明6年)に将軍徳川家治が急死すると、田沼派に批判的な勢力が一気に動き出しました。
彼らの工作もあり、田沼は将軍死亡の混乱の最中に老中職から失脚させられます。
その後、所領は大幅に減封され、蓄財の多くも没収されるなど厳しい処罰を受けました。
かつて幕府の中枢を握っていた田沼は、わずか1万石の小大名として辛うじて家名存続を許されただけだったのです。
失意の田沼意次は1788年(天明8年)、70歳で世を去りました。晩年は領国の相良藩において年貢を抑えるなど、民衆に配慮した統治を行ったとも伝えられています。
結果的に彼は「賄賂政治の権化」として長く語られますが、近年では先進的な改革者としての功績も見直され始めています。
こうして波乱に満ちた生涯を終えた田沼意次は、江戸中期の歴史を語る上で欠かせない存在であり、決して一面的な評価では収まらない複雑な人物像を残したのです。
田沼意次のエピソードや逸話
ここでは、田沼意次のエピソードや逸話を紹介します。
海賊を退散させた機転
田沼意次には、相良城在城中に海賊船を戦わずして退散させたというエピソードが伝わっています。
ある日、相良城の近くの海に怪しげな船が姿を現しました。
家臣たちはあわてて戦支度を始めますが、田沼は「ちょっと待て、良い考えがある」と言い、大太鼓を担げる力自慢の家臣を近くの山へ派遣しました。
そこで大太鼓を力いっぱい鳴らすと、「ドーン、ドーン」という轟音が海上にも響き渡ります。
海賊たちは大砲による攻撃と勘違いし、大慌てで逃げ去ってしまいました。
こうして一戦交えることなく城を守り抜いたというわけです。
大胆な発想を瞬時に実行に移すあたりに、田沼の柔軟な知恵と行動力が見て取れる話です。


平賀源内との交流
前述の通り、田沼は商業や鉱山開発といった新しい試みに意欲的で、発明家の平賀源内とも親交があったと言われています。
源内は鉱山開発の調査や洋式技術の導入などで財政的な苦境に陥り、あるとき田沼に大金を借りようと相談しました。
田沼はこの申し出を快く受け入れ、500両という当時としてはかなりの大金を融通したと伝えられます。
残念ながら源内の事業は期待したほどの成果を上げず、やがて源内自身も不祥事を起こして投獄されるなど不運が重なりました。
しかし田沼が時の権力者として、科学者肌の人物に大規模投資を行ったというのは、当時としては革新的な行為だったのではないでしょうか。
この交流は、田沼の先見性と開明的な側面を示すエピソードとして語り継がれています。
川柳や風刺画に描かれた田沼像
江戸の町人文化が盛んな時代、庶民の感情は川柳や風刺画にも反映されました。
特に、田沼政権下での賄賂問題を皮肉る川柳や戯画は少なくありません。
たとえば「藪の中 筍のごとく 賄賂生え」という有名な川柳は、次から次へと湧いてくる賄賂を筍にたとえたものとされます。
こうした風刺によって人々の批判はさらに増幅され、世間では「田沼=賄賂政治」というイメージが定着していきました。
実際に田沼は賄賂を推奨したわけではありませんが、「商業重視=金儲け優先」という短絡的な見方で非難されがちだったのです。
後世に至るまで残る悪評には、江戸時代の大衆文化が形成したイメージ戦略的な影響も大きかったのかもしれません。
「遺訓七箇条」に見る子孫への教え
田沼意次は、晩年に「遺訓七箇条」という形で子孫に教えを残したと言われています。
その中には「どんなに財政難でも領民に過度の年貢を課すべきではない」という主旨の文言が見られるそうです。
これは失脚後に自身の失政を振り返りつつ、次の世代には同じ過ちを繰り返してほしくないという思いが込められているのだとか。
また、相良藩内では田沼が実際に年貢率を低めに設定していたという記録もあり、領民にはわりと好意的に受け入れられた節があります。
こうした一面からは、「悪政の象徴」と語られることが多い田沼が、むしろ現場レベルでは民衆への配慮を示していたことがうかがえるかもしれません。
晩年の「七曜紋」陣太鼓と地元への寄進
前述の通り、田沼は相良藩での領主生活の中で地域の祭礼や寺社を積極的に支援しました。
その一例として、田沼が晩年に「七曜紋」の陣太鼓を奉納したという話があります。
この陣太鼓はもともと軍楽用の太鼓ですが、祭事に用いる神輿や山車との組み合わせによって、独自の伝統行事を盛り上げたと伝わります。
七曜紋は田沼家の家紋としても知られ、太鼓にはこの紋が描かれていたようです。
相良の地では、この太鼓が近隣を威嚇し、かつ住民を鼓舞する役割を担ったという伝承があります。
こうした地元との結びつきエピソードは、田沼が中央政界の失意を抱えつつも、領民との関わりを大切にしていたと感じさせる話でもあるでしょう。
田沼意次にゆかりの地
ここでは、田沼意次にゆかりの地や史跡を紹介します。
興味のある方は、ぜひ訪れてみてくださいね。
相良城跡(静岡県牧之原市)
静岡県牧之原市の相良地区にある相良城跡は、田沼意次が入封した相良藩の中心地でした。
城は失脚後に破却されてしまい現存しませんが、本丸跡地には「牧之原市史料館」が建てられており、田沼家伝来の武具や文書、寄進された神輿などが展示されています。
当地には「田沼街道」と呼ばれる旧街道も残り、往時の雰囲気を味わうことができます。
般若寺(静岡県牧之原市)
相良の城下町にある般若寺も、田沼家ゆかりの品を所蔵する寺院として知られています。
堂内には、海賊退散の逸話で使われたと伝わる陣太鼓や、相良城の杉戸などが展示されており、田沼時代の雰囲気を今に伝える貴重な資料です。
古い建物や仏像を眺めながら、田沼が生きた時代に思いをはせるのも楽しいでしょう。
勝林寺(東京都豊島区)
田沼意次の墓所がある勝林寺(しょうりんじ)は、東京・駒込に位置する田沼家の菩提寺です。
境内には意次の墓石が建立されており、戒名が刻まれています。
江戸幕府の中心で活躍した人物の史跡としては意外と知られていない場所ですが、都内在住の方にとってはアクセスも良く、田沼の功績と波乱の人生に思いを寄せる貴重なスポットです。
田沼意次の子孫は?
田沼意次の子孫について紹介します。
幕末まで大名家として続き、明治維新後は華族に列したものの、やがて爵位を返上して一般の士族(平民)に戻りました。
現在でも血統は存続しているそうです。
名前 | 詳細 |
---|---|
田沼 意明(おきあき) | 意次の孫。天明期の大混乱の中でわずか1万石ながら藩主を継承。田沼家が大きく減封された後の当主として相良藩を守り抜いた人物。 |
田沼 道雄 | 現在の田沼家当主(13代目)と伝えられる。大正13年(1924年)生まれ。かつて田沼意次が悪政の象徴として教科書に記述されるたび、肩身の狭い思いをしたが、近年は再評価の動きに期待を寄せている。 |
田沼家の子孫たち | 明治以降、華族として子爵位を得たが大正時代に返上し、一般の士族に。その後も意次の遺訓を大切にし、毎年正月に一族で遺訓七箇条を読み交わして先祖を偲んでいる。 |






田沼意次に関する覚えておきたいポイント
ここでは、田沼意次に関するエピソードを、覚えておきたいポイントとしてまとめました。
この時代のことを深く知りたい人や、テストや受験でこの時代のことを勉強している人のために、田沼意次に関する重要なポイントを以下にまとめました。
ぜひ参考にしてくださいね。
- 紀州藩士の子として生まれ、江戸で育った
- 15歳で将軍徳川家重の小姓に抜擢され、頭角を現す
- 1万石の大名となってから側用人、老中へ急速に昇進した
- 重商主義政策を打ち出し、株仲間の公認や蝦夷地開発を推進
- 一時的に景気が上向き、町人文化が花開いた時代でもあった
- 汚職や賄賂の横行で批判を浴び、庶民から強く反発された
- 嫡男・意知が暗殺された事件が政権崩壊の決定打となった
- 将軍家治の死後、反対派の手で失脚し、大幅に減封処分を受ける
- 晩年は相良藩で年貢を抑制するなど領民を労わった記録が残る
- 現在では「先進的な改革者」として見直されている側面がある
おわりに
田沼意次は、江戸時代中期に老中として幕府財政を改善しようと試みた人物です。
商人の力を取り込む重商主義政策など革新的な改革を行った一方、結果的に汚職や賄賂の温床となって強い反発を招き、失脚の憂き目を見ました。
しかしながら、近年の研究では田沼が抱いていた構想の先見性が再評価されています。
天明期の天災や政治的な対立も重なり、不運が続いた面は否めません。
この記事を通して、田沼意次という人物が単なる「悪政の象徴」ではなく、江戸幕府の枠組みに新風を吹き込もうとした一面を持っていたことをご理解いただけたなら幸いです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
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