【詳細解説】平清盛は何をした人?どんな人?わかりやすく紹介!死因や子孫についても

この記事でわかること

この記事では、平清盛が何をした人でどんな人だったのかを簡単にわかりやすく紹介しています。
歴史にあまり詳しくない人から日本史を学ぶ受験生まで役立つ内容になっています。
平清盛について知りたい方は、ぜひ本記事をご覧ください!

この記事は

  • 平清盛って何をした人?どんな人?
  • 平清盛の生涯やエピソード、ゆかりの地について知りたい。
  • テストや受験勉強で役立つ平安時代の知識を学びたい。

こんなことを知りたい人におすすめです。

目次

平清盛のプロフィール

平清盛
平清盛

平清盛は武士として初めて太政大臣に任じられ、日宋貿易を通じて財政基盤を築き、日本初の武家政権を打ち立てました。

名前平清盛(たいらの きよもり)
出身地山城国 京(現在の京都市)など諸説あり
生年月日1118年1月18日(永久6年1月18日)
死亡年月日1181年3月20日(治承5年閏2月4日)
享年64歳
活躍した時代平安時代末期
家族父:平忠盛、母:白河院女房(祇園女御の妹?)、継母:池禅尼
妻:高階基章の娘、平時子(二位尼)
子:重盛、基盛、宗盛、知盛、徳子、盛子、重衡、知度、清房、完子

平清盛のかんたん年表

平清盛の簡単な年表を以下の表にまとめました。

年代(西暦/年号)出来事
1118年1月18日(永久6年1月18日)平清盛誕生。平忠盛の嫡子として生まれる。
1138年(保延4年)高階基章の娘と結婚するが死別。その後、平時子と再婚。
1153年(仁平3年)父・平忠盛が死去し、平氏の棟梁を継ぐ。
1156年(保元元年)保元の乱で後白河天皇側につき、源義朝とともに源為義、平忠正らを討つ。
1159年(平治元年)平治の乱で源義朝と戦い、勝利を収める。
1167年(仁安2年)武士として初めて太政大臣に任じられる。
1177年(治承元年)鹿ヶ谷の陰謀が発覚し、平家に対立する院近臣を一掃する。
1179年(治承3年)後白河法皇を幽閉し、院政を停止する。
1180年(治承4年)京都から福原への遷都を断行するが、6か月で還都する。
1181年3月20日(治承5年閏2月4日)熱病に倒れ死去。享年64歳。

平清盛はどんな人?生涯をざっくり紹介

それでは、平清盛の生涯を簡潔に紹介します。
平清盛は、どのような人物だったのでしょうか。

平清盛の生涯
  • 平忠盛の嫡子として誕生
  • 保元の乱で後白河天皇側につく
  • 平治の乱で源義朝を討つ
  • 武士として初めて太政大臣に任じられる
  • 日宋貿易を推進し、経済基盤を強化
  • 京都から福原への遷都を試みる
  • 鹿ヶ谷の陰謀を鎮圧
  • 熱病に倒れ死去

平忠盛の嫡子として誕生

平清盛は1118年1月18日、平忠盛の嫡男として誕生しました。出生地は伊勢産品(現在の津市)という説が有力です。
母は白河法皇に仕えた女房で、忠盛の妻となった女性です。
幼少期は祇園女御の庇護の下で成長し、白河法皇の落胤という説もあります。
清盛は幼少期から武士としての教育を受け、将来の平氏の棟梁として期待されていました。

清盛は若い頃からその才能を発揮し、父・忠盛の後を継いで平氏の勢力を拡大しました。
彼の生涯は、平安時代末期の武士社会の形成に大きな影響を与えました。清盛の誕生は、後の平家の栄華の始まりを象徴する出来事でした。

保元の乱で後白河天皇側につく

1156年、保元の乱が勃発しました。この乱は、崇徳上皇と後白河天皇の対立が原因で起こりました。
清盛は後白河天皇側につき、源義朝と共に戦い、勝利を収めました。
この勝利により、清盛は播磨守、大宰大弐に任じられ、平氏の勢力をさらに拡大しました。

保元の乱での勝利は、清盛の政治的地位を確立する重要な出来事でした。
彼はこの戦いを通じて、武士としての実力を示し、後白河天皇からの信頼を得ることができました。
この成功が、後の平治の乱での活躍につながります。

平治の乱で源義朝を討つ

1159年、平治の乱が発生しました。この乱は、後白河上皇の近臣間の権力争いが原因で起こりました。
清盛は信西と協力し、源義朝を討ちました。この勝利により、清盛は武士の第一人者としての地位を確立し、平氏の勢力をさらに強化しました。

平治の乱での勝利は、清盛の生涯における重要な転機となりました。
彼はこの戦いを通じて、平氏の支配力を確固たるものにし、後の太政大臣任命への道を開きました。
この成功が、清盛の政治的影響力を一層強化しました。

武士として初めて太政大臣に任じられる

1167年、清盛は武士として初めて太政大臣に任じられました。
太政大臣は政治のトップであり、清盛の権力は絶頂に達しました。
彼は後白河上皇と二条天皇の双方に仕え、政略結婚を通じて地位を固めました。

この任命は、武士が貴族社会の中で重要な役割を果たすことを示す画期的な出来事でした。
清盛はこの地位を利用して、平氏の勢力をさらに拡大し、武士社会の基盤を築きました。
彼の政治的手腕は、後の鎌倉幕府の成立にも影響を与えました。

日宋貿易を推進し、経済基盤を強化

清盛は日宋貿易を推進し、大輪田泊を整備して貿易の拠点としました。
彼は宋銭の流通を促進し、日本の通貨経済の基礎を築きました。
日宋貿易により、平家は莫大な財力を得ることができました。

この貿易活動は、平氏の経済基盤を強化し、彼らの政治的影響力を支える重要な要素となりました。
清盛の経済政策は、後の日本の貿易発展にも大きな影響を与えました。彼の先見の明が、平家の繁栄を支えました。

京都から福原への遷都を試みる

1180年、清盛は京都から福原(現在の神戸市)への遷都を試みました。
遷都の理由は、寺社勢力の圧力を避けるためとされています。しかし、遷都は失敗し、わずか半年で京都に戻ることとなりました。

この遷都の試みは、清盛の大胆な政治改革の一環でしたが、結果的には失敗に終わりました。
それでも、この試みは彼の政治的野心と改革意欲を示すものであり、平氏の歴史における重要な出来事として記憶されています。

鹿ヶ谷の陰謀を鎮圧

1177年、鹿ヶ谷の陰謀が発覚しました。後白河法皇の近臣が平家打倒を計画していたのです。
清盛はこの陰謀を鎮圧し、首謀者を処罰しました。この事件により、清盛の権力はさらに強化されました。

鹿ヶ谷の陰謀の鎮圧は、清盛の政治的手腕を示す重要な出来事でした。
彼はこの事件を通じて、反対勢力を一掃し、平氏の支配力を確固たるものにしました。この成功が、彼の政治的影響力を一層強化しました。

熱病に倒れ死去

1181年3月20日、清盛は熱病により死去しました。
死因はマラリアや溶連菌感染症などの説があります。清盛の死により、平家の勢力は急速に衰退しました。

清盛の死は、平氏の歴史における大きな転機となりました。
彼の死後、平氏は源氏との戦いに敗れ、壇ノ浦の戦いで滅亡しました。それでも、清盛の業績と影響力は、後の日本の歴史に大きな影響を与え続けました。

平清盛のエピソードや逸話

ここでは、平清盛のエピソードや逸話を紹介します。

平清盛のエピソード
  • 白河法皇の落胤説
  • 優しい性格
  • 音戸の瀬戸の開削
  • 平治の乱後の慈悲
  • 鹿ヶ谷の陰謀

白河法皇の落胤説

平清盛は平忠盛の子とされていますが、実は白河法皇の子であるという説があります。
白河法皇が寵愛していた祇園女御を忠盛に与えた際、祇園女御はすでに白河法皇の子を妊娠しており、男子なら忠盛の子として育てるように言われたとされています。

優しい性格

清盛は暴君のイメージが強いですが、実際には優しい性格だったとされています。
家臣を叱る際には、恥をかかせないように誰もいない場所で丁寧に諭し、相手が奉公人でもその家族や知人の前では一人前の人物として扱いました。

音戸の瀬戸の開削

日宋貿易を推進するために音戸の瀬戸を開削した際、清盛は人柱を廃止し、経典を書いた経石を海に沈めました。
また、工事が終わらないときには金の扇を広げて夕日を招き返し、工事を1日で終わらせたという伝説もあります。

平治の乱後の慈悲

平治の乱で源義朝に勝利した後、清盛は義朝の子供たちを助けました。
この慈悲深い行動が後に平家滅亡の一因となったとされています。

鹿ヶ谷の陰謀

1177年、後白河法皇の側近たちが平氏打倒の陰謀を企てた際、清盛は首謀者を処罰しましたが、後白河法皇は罪に問われませんでした。この事件は清盛と後白河法皇の関係をさらに悪化させました。

平清盛にゆかりの地

ここでは、平清盛にゆかりの地や史跡を紹介します。
興味のある方は、ぜひ訪れてみてくださいね。

平清盛にゆかりの地
  • 六波羅蜜寺
  • 大輪田泊(兵庫区)
  • 八坂神社

六波羅蜜寺

六波羅蜜寺は、平清盛が平家一門の屋敷群を築いた場所として知られています。
ここには清盛の長男、重盛を祀った小松堂もあります。平家の栄華を象徴する重要な史跡です。

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