清少納言はどんな人?紫式部との関係や平安時代の宮廷文化についても解説!

この記事でわかること

この記事では、清少納言がどのような人物で、どのような業績を残したのかを簡単にわかりやすく紹介しています。
歴史にあまり詳しくない人から日本史を学ぶ受験生まで役立つ内容になっています。
清少納言について知りたい方は、ぜひ本記事をご覧ください!

この記事は

  • 清少納言ってどんな人?どのような業績を残したの?
  • 清少納言の生涯やエピソード、ゆかりの地について知りたい。
  • テストや受験勉強で役立つ平安時代の知識を学びたい。

こんなことを知りたい人におすすめです。
それでは本文をご覧ください!

目次

清少納言のプロフィール

名前清少納言(せいしょうなごん)
出身地不詳
生年月日966年頃(康保3年頃)
死亡年月日1025年頃(万寿2年頃)
享年約59歳
活躍した時代平安時代中期
家族父:清原元輔、曾祖父:清原深養父、夫:橘則光、藤原棟世、子:橘則長、小馬命婦
代表作『枕草子』
職業女房、作家、歌人
別名清原諾子(きよはらのなぎこ)とされる説もある

清少納言のかんたん年表

年代(西暦/年号)出来事
966年頃(康保3年)生誕。京都にて、父・清原元輔のもとに生まれる。
980年頃(天元3年)橘則光と結婚し、息子・橘則長をもうける。
990年頃(正暦元年)橘則光と離婚。
993年(正暦4年)一条天皇の中宮・藤原定子に仕え始める。
994年(正暦5年)宮中での生活を基に『枕草子』の執筆を開始。
1000年(長保2年)定子が亡くなり、宮中を去る。
1001年(長保3年)『枕草子』を完成させる。
不明藤原棟世と再婚し、娘・小馬命婦をもうける。
1025年頃(万寿2年)死去。享年約59歳。

清少納言はどんな人?生涯をざっくり紹介

それでは、清少納言の生涯を簡潔に紹介します。
清少納言は、どのような人物だったのでしょうか。

清少納言の生涯
  • 京都にて、清原元輔の娘として生まれる
  • 橘則光と結婚し、息子・橘則長をもうける
  • 一条天皇の中宮・藤原定子に仕え始める
  • 宮中での生活を基に『枕草子』を執筆
  • 定子の死去とともに宮中を去る
  • 晩年は貧困に苦しむ
  • 死去

京都にて、清原元輔の娘として生まれる

清少納言は、966年頃(康保3年頃)に京都で生まれました。父は有名な歌人であり、三十六歌仙の一人である清原元輔です。元輔は万葉集の解読や後撰和歌集の編纂を行った「梨壺の五人」の一人としても知られています。清少納言は、父の影響を受けて幼少期から文学や和歌に親しみ、その才能を開花させました。

彼女の家庭環境は、文学や芸術に対する深い理解と愛情に満ちていました。これが、後に彼女が『枕草子』という名作を生み出す基盤となったのです。清少納言の幼少期は、平安時代の貴族社会の中で育まれた豊かな文化的背景に支えられていました。

橘則光と結婚し、息子・橘則長をもうける

清少納言は、981年頃に橘則光と結婚しました。橘則光は武勇に優れた人物であり、清少納言より1歳年上でした。982年(天元5年)には息子の橘則長を出産し、家庭を築きました。しかし、二人の結婚生活は長く続かず、後に離婚することになります。

離婚後、清少納言は独立した生活を送りながらも、息子の橘則長との関係を大切にしました。彼女の人生には多くの困難がありましたが、それでも彼女は強い意志と知性を持ち続けました。この時期の経験が、彼女の文学作品に深い影響を与えたことは間違いありません。

一条天皇の中宮・藤原定子に仕え始める

993年(正暦4年)、清少納言は一条天皇の中宮・藤原定子に仕えるようになります。定子は聡明で明るい性格であり、清少納言と親密な関係を築きました。宮中での生活は華やかで、文芸サロンが開かれることもありました。清少納言はその中で、持ち前の知識と才気を発揮し、多くの人々に影響を与えました。

定子との関係は、清少納言の人生において非常に重要なものでした。彼女は定子の信頼を得て、宮中での地位を確立しました。この時期の経験が、後に『枕草子』を執筆する際の大きなインスピレーションとなったのです。

宮中での生活を基に『枕草子』を執筆

宮中での経験を基に、清少納言は『枕草子』を執筆しました。この作品は、日常生活や四季の自然、宮廷社会を描いた随筆であり、平安時代の貴族文化を知る貴重な資料です。『枕草子』は、清少納言の鋭い観察眼とユーモアが光る作品であり、多くの人々に愛されています。

1001年(長保3年)頃に『枕草子』を完成させた清少納言は、その後も宮中での経験を基にした作品を発表し続けました。彼女の作品は、当時の貴族社会の生活や価値観を知る上で非常に重要なものとなっています。

定子の死去とともに宮中を去る

1001年(長保3年)、藤原定子が亡くなります。定子の死去に伴い、清少納言は宮中を去ることになります。定子の死は、清少納言にとって大きな喪失であり、彼女の人生に大きな影響を与えました。宮中を去った後、清少納言は再婚し、藤原棟世との間に娘・小馬命婦をもうけました。

前述の通り、定子の死後、清少納言は再び家庭を築きましたが、その後の生活は決して楽ではありませんでした。彼女は宮中での華やかな生活から一転し、質素な生活を送ることになります。

晩年は貧困に苦しむ

晩年の清少納言は、貧困に苦しんだとされています。京都の東山月輪にある小さな家で過ごし、質素な生活を送りました。彼女は、かつての宮中での華やかな生活とは対照的な生活を余儀なくされました。それでも、彼女は歌人の赤染衛門や和泉式部らと交流し、文学への情熱を失うことはありませんでした。

死去

清少納言は、1025年頃(万寿2年頃)に亡くなりました。死因は不明ですが、約60歳で亡くなったとされています。彼女の墓所は複数の伝承があり、徳島県や香川県などに清少納言の墓とされる場所が存在します。彼女の死後も、その作品と影響力は後世に受け継がれ、多くの人々に愛され続けています。

清少納言のエピソードや逸話

ここでは、清少納言のエピソードや逸話を紹介します。

清少納言のエピソード
  • パーマで茶髪だった?
  • 紫式部との関係
  • 零落した晩年
  • 枕草子のレンタル制度

パーマで茶髪だった?

清少納言は、平安時代の貴族女性の典型的な黒髪ストレートヘアとは異なり、癖毛で茶色がかった髪の毛だった可能性が高いと言われています。いわゆる、天然パーマですね。
『枕草子』の記述から、彼女が「かもじ」という付け毛を使用していたこともわかっています。

紫式部との関係

清少納言と紫式部は一般的に不仲とされていますが、実際には面識がありませんでした。紫式部が清少納言の華やかな宮廷生活に対する嫉妬心を抱いていた可能性があります。

零落した晩年

晩年の清少納言は貧困に苦しみ、家が壊れてしまったこともありました。若い殿上人たちが彼女の家の前を通りかかり「このあばら家に、あの清少納言が住んでいるらしい」と話していました。それを聞いた清少納言は「駿馬の骨を買わずや」と中国の故事で返したという逸話があります。

「駿馬の骨を買わずや」という言葉の意味は「落ちぶれても駿馬は駿馬、骨でも買い手はあるんだ」という意味で、清少納言のプライドと、教養を表すエピソードです。

枕草子のレンタル制度

清少納言の『枕草子』は、当時の貴族たちの間でレンタルされて読まれていました。彼女の意図に反して広まったこの作品は、多くの人々に愛されました。

清少納言にゆかりの地

ここでは、清少納言にゆかりの地や史跡を紹介します。
興味のある方は、ぜひ訪れてみてくださいね。

藤原頼通にゆかりの地

京都御所(清涼殿)

京都御所の清涼殿は、一条天皇の中宮・藤原定子に仕えていた清少納言が過ごした場所です。『枕草子』にも登場し、彼女の宮廷生活の舞台となりました。現在の清涼殿は当時よりも小さくなっていますが、春と秋には一般公開されます。

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